特集2026.10

「支え合い」の大切さを見つめ直す労働組合はなぜ「支え合い」の活動に取り組むのか
組合活動の歴史からひもとく

2026/10/14
労働組合は、なぜ共済をはじめとする福祉活動に取り組むのか。その答えは、働く仲間同士が支え合ってきた労働運動の原点にある。歴史をたどりながら、現代へ受け継がれる「相互扶助」の意味を考える。
堀田 真吾 情報労連中央執行委員

労働組合が福祉活動(共済)を行う意義とは?

突然ですが、労働組合の3大機能は何?と問われて、すぐに回答できる方は、そう多くはないと思います。長年、組合役員を経験された方であれば、(1)「経済的機能」、(2)「政治的機能」、(3)「相互扶助機能」と回答できる方もいらっしゃると思いますが、大抵はそこまで意識している人は少ないでしょう。(1)の経済的機能は、会社との団体交渉や労使協議など、誰もがイメージする労働組合の活動でしょう。(2)の政治的機能については、政治的・社会的活動を通じて、国や自治体に対して労働法制の制定や改正、働き方の改善につながる社会保障政策や税制の変更を要求し、法制度の面から労働者の保護を実現します。要は、社会のルールを変えていく機能と言えるでしょう。

今回のトピックは、(3)の相互扶助機能です。なぜ労働組合が福祉活動を行うのか、そのルーツは、この相互扶助機能の成り立ちをひもといていく必要があります。

イギリス産業革命期

労働組合は、会社との交渉に主眼を置くだけでなく、労働者同士の助け合いの精神に基づき、結成された経緯を持ちます。古くは、18世紀半ばのイギリス産業革命期に、技術革新に伴う過酷な労働環境に耐えかねた労働者が団結したのがきっかけです。その当時は労働組合ではなく「友愛組合」と呼ばれる組織で、労働者たちは病気やけが、死亡時の相互扶助(共済)を目的とした非政治的な組織を作っていましたが、労働者共通の苦境(低賃金、長時間労働等)への対応として、資本家に対して交渉を行う団体へ移行していきました。

この点からも、労働組合のそもそものルーツは、「相互扶助」であり、働く仲間同士の助け合いが起源となっていることがわかります。

日本での労働組合のルーツ

日本でも明治維新を皮切りに近代化が進む中、高野房太郎や片山潜らによって「労働組合期成会」が設立され、職工(工場労働者)の権利擁護運動がスタートしましたが、1900年に「治安警察法」が制定され、結社の自由に制限がかかり、労働組合も弾圧の対象となりました。1912年には友愛会(後の日本労働総同盟)が結成されたものの、結成当初は先の法律制定により「労働組合」として活動を行うと、弾圧の対象となってしまうことから、穏健な助け合いの活動を展開し、組織を大きくしていくことで、「8時間労働制、結社の自由、治安警察法の廃止」の方針を決定し、権利主張運動(労使自治による労働条件改善)へ発展していきました。

友愛会は、労働者の助け合いを中心として活動をスタートしており、イギリスの友愛組合をモデルとしていました。その営みとしては、労働者の地位向上に関する講演会や法律・健康相談、共済制度でした。この取り組みが現代の協同組合の取り組みにつながっていくことになります。

日本の協同組合の父「賀川豊彦」

友愛会と協同組合運動は、「日本の近代労働運動と生協(消費協同組合)運動の共通の母体」と言える非常に深い関係にありました。その友愛会、神戸支部で活動したのが、「日本の協同組合の父」と呼ばれる賀川豊彦です。

賀川の幼少期

賀川は、1888年兵庫県神戸市に生まれましたが、幼くして両親を亡くし、本家である徳島の実家で幼少期を過ごしました。本家では、本妻の子ではない賀川は、心ない扱いを受け、肩身の狭い思いをしていました。この時の境遇が、後に社会的弱者や虐げられた人々に寄り添う感受性のベースになったとされています。

キリスト教と肺結核

賀川は、旧制徳島中学校時代にキリスト教宣教師との出会いにより、16歳で洗礼を受け、1905年に東京の明治学院高等部神学予科、1907年に神戸神学校に編入し、キリスト教の伝道と社会救済の基礎を学びました。この時期、幼少期より患っていた肺結核が悪化し、医師からは二度の死の宣告を受けるほどの重症化となりましたが、周りの決死の看病により、奇跡的に一命をとりとめました。病苦と貧困をきっかけに、賀川は、「どうせ死ぬのなら、余命を人のために捧げて生きた証を立てよう」と決意します。

救貧から防貧へ

賀川は、当時日本で有数のスラム街であった神戸・新川地区に一間の部屋を借りて、移り住みました。そこで病者や貧困層の世話、子供たちの教育、給食活動などを行い、後に「スラム街の聖者」と呼ばれる活動の第一歩を踏み出しました。貧民窟と呼ばれた神戸・新川地区で貧しい方々への救済に取り組んでいたものの、次から次へとキリがない状況になっており、救済だけでは解決につながらないと思い立ち、「救貧」から「防貧」にシフトしていくこととなります。

アメリカ留学での労働運動との出合い

賀川は、留学先のニューヨークで労働者6万人が団結して資本家に対抗する社会運動の光景を目の当たりにし、大きな衝撃を受けます。この体験から、「目先の困っている人を助けるだけでなく、貧困を防ぐ社会の仕組みづくりこそが大切だ」ということを痛感したといわれています。

労働運動参画と戦前最大の労働争議

賀川は、帰国後、先に述べた友愛会と連携し、労働運動の指導者としての立ち位置を確立していくこととなります。とりわけ、特に印象的な労働争議は、日本最大規模の労働争議(川崎・三菱神戸造船所争議)であり、賀川は、参謀として陣頭指揮を執ることになります。

なお、この争議は、軍隊や警察の介入により、厳しい弾圧が加えられ、最終的には労働組合側が敗北する結果となりましたが、労働者が階級意識に目覚めたこと、労働運動がいかなるものかを世間に知らしめることになったことは、労働組合の存在意義を確立する意味として大きな収穫になったといえます。

労働者の尊厳

この争議を通じて、「単なる労働力という機械ではなく、神に愛される一人の人格である」という賀川の主張は、当時の劣悪な工場労働に苦しむ人々から絶大な共感を呼び、近代的な人権・労働観の萌芽となったといわれています。

労働運動と並行した協同組合運動

労働運動と並行して、賀川が熱心に取り組んだのが協同組合運動です。アメリカ留学から帰国した翌年(大正7年)には、日本中で米騒動が勃発しました。

米の高騰により、コメ問屋や商店などが米を占有し、暴動に発展する事態となりました。賀川は、問屋や商店の暴利をさせないため、生産者から直接購入する消費組合(現在の協同組合の礎)の設立に尽力しました。

労働運動や協同組合運動を通じて、賀川の理念が現在でも色濃く残されています。それが、「相互扶助と連帯」であり、今日の労働組合が実施する福祉活動につながっているといえます。

おわりに

戦後の日本経済復興期にも労働組合運動と協同組合運動が大きく寄与している部分もありますが、今回は日本の労働組合のルーツ(戦前)から労働組合が福祉活動を行う意義にどうつながっているかをひもときました。

情報労連は、組合員とその家族の皆さんの生活の安心につなげるべく、引き続き、加盟組合や福祉事業体(電通共済生協やきらら保険サービス等)の皆さんと連携し、さらなる福祉活動の充実につなげていきます。

〈参考文献〉賀川豊彦『死線を越えて』

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