特集2024.07

政治のなぜ?を考える
政治にまつわる疑問を考察
「政治とカネ」の本当の問題とは?
民主主義のための
「水平な競技場」をつくる

2024/07/12
自民党の裏金問題でフォーカスされる「政治とカネ」の問題だが、その本質はどこにあるのだろうか。裏金問題にとどまらない、民主主義の構築のために求められる視点とは何か?
中野 晃一 上智大学教授

「政治とカネ」のはじまり

「政治とカネ」の問題を考えるために、まず議会が開設されていなかった中世ヨーロッパを考えてみましょう。絶対君主制の時代、国王は自分の都合で勝手に戦争を始めたり、戦費のために課税したりすることがありました。貴族たちは国王のそうした身勝手な振る舞いを許さないために議会を開設しました。課税資産を所有する裕福な人たちが、その権利を侵害されないために発言権を求めたのが議会政治の始まりです。

このような始まり方ですから、資産を持たない労働者や農民は、発言の権利を持ちませんでした。世界最初の男性普通選挙が行われたのは18世紀末、女性を含む完全普通選挙が実施されるようになったのは19世紀末です。それまでは資産のある人しか投票できない制限選挙が行われてきました。資産のある人にしか投票権のない制限選挙の下では、政治資金に関する規制はほとんどありませんでした。

金権政治と身分制

政治資金のあり方が本格的に問題になるのは、普通選挙が行われるようになってからです。資産を持たない人々でも投票できるようになる過程で「政治とカネ」の問題が出てきたのです。

その際、一番問題になったのは、「金権政治」です。「金権政治」とは、カネと権力が結び付いて、民主政治をゆがめてしまうことです。資産のない人でもせっかく投票できるようになったのに、お金の力によって政治の結果がゆがめられてしまえば、民主主義の意義が失われてしまいます。

金権政治の問題点は、新たな身分制度を招いてしまうことです。金権政治がはびこると、お金を持っている人が権力を握るようになり、それがさらに政治とカネの癒着を生み、新たな身分制を生み出します。身分制に基づく不公正な政治を変えるために民主化をしたのに、金権政治を放置すると、身分制度に逆戻りしてしまうのです。現在も議員の世襲が問題になっていますが、「政治とカネ」の問題を見る際には、この点を振り返る必要があります。

無産階級と政治

他方、お金のない人たちが政治にかかわる際にも、「政治とカネ」が問題になりました。お金のない人たちが政治にかかわろうとすると資金が必要になるからです。

普通選挙を巡っては、「お金に困っている人が政治を通じて金もうけしようとする。だから政治はお金に困らない人がやるべきだ」だとして制限選挙を正当化する意見がありました。しかし、これでは民主化は実現しません。そこでお金がなくても能力のある人に政治を担ってもらうためには、それに見合った手当を支払うべきだという意見が出てきたのです。その結果、議員報酬や議員年金などの仕組みが生まれました。

このように「政治とカネ」の問題は、資産のない人でも政治に参加できるように、いかに公平な立場をつくるのかが常に問題になってきました。

「水平な競技場」

「政治とカネ」を語る際に大切なのは、政治がお金でゆがめられていないか、すなわち「水平な競技場(Level Playing Field)」ができているかどうかということです。ところが、日本の多くのメディアではこうした視点が抜け落ちていると思います。権力の強い人も弱い人も同じ規制を当てはめるような一律的な議論がまかり通っています。

「水平な競技場」をつくるという観点では、いわゆる裏金が政治をゆがめていることは明らかです。裏金の使途を公開せず、会計責任者だけに責任を押し付けてお茶を濁してうやむやにしようとする自民党の態度は、政治の責任を果たしているとはとても言えません。真相が究明されないことも金権政治の表れだといえるでしょう。

問題はそれだけにとどまりません。現在の政党交付金の仕組みも「水平な競技場」をつくっているとは言えません。現在の政党交付金は、その総額の2分の1は議席数に応じて配分されます。しかし、死票が多く、大政党に有利といわれる小選挙区制度で、議席数に応じて配分すれば大政党に有利な分配になります。せめて全額を得票数に応じた分配に見直すべきです。自民党はその上で裏金を利用し、企業団体献金も受けているわけです。これでは「水平な競技場」になっているとは言えません。裏金を利用した場合、政党交付金を減らすような仕組みも必要です(自民党は裏金が発覚した後でもすべて受け取っています)。

ほかにも、女性候補者の少ない政党に対する交付金を減らすような仕組みも考えられるはずです。

企業団体献金にしても同じです。資本主義社会において、労働者の力と企業の力は対等ではありません。「水平な競技場」をどのようにつくるかという観点からは、企業からの献金と労働組合からの献金を一律的に同じように規制すべきということにはならないはずです。

「政治とカネ」の本質

政治にはお金がかかります。私は、政治からお金をなくせと言っているわけではありません。そうではなく、権力とお金が結び付いて政治をゆがめることがおかしい、「水平な競技場」をつくるべきと訴えています。

例えば有名な話では、イギリスでは、野党第一党の党首らに役職手当を支給したり、野党に対して政策費として国から資金を提供したりしています。これは与党に比して野党の官僚へのアクセスが弱く議会活動で不利なためです。

そもそも政治権力が不平等に存在しているという認識がなければ民主主義は芽生えません。一部の特権階級が勝手に戦争を始めたり、税金で宮殿を建てたりするから民主主義が始まりました。政治とカネが結び付いて、不平等な状態になっていないかのチェックは、民主主義を機能させるためにも欠かすことができません。

例えば企業においても男女平等を実現するために、さまざまな施策に取り組んでいます。それは形式的には男女平等であっても、実質的な不平等が残っているからです。政治に関してもこれと同じことが言えます。ところが日本の場合、与党も野党もどちらも悪いという意識があまりにも強いと思います。形式的で一律的な規制にとらわれるのではなく、一部の勢力に有利に働くような仕組みがないか、「水平な競技場」はできているか。こうしたチェックを続けることが重要です。

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