暮らしから考える社会のこと 「社会への投資」が暮らしを変える財政を変えれば暮らしは変わる
みんなで支え合う「オール・フォー・オール」へ
経済成長と暮らし
勤労者世帯の可処分所得は、1997年をピークに2017年までの間に13%減少しています(総務省「家計調査」)。「アベノミクス」は、2012~2017年の間に勤労者世帯の可処分所得を3%程度増やしましたが、今後、「アベノミクス」より早いペースで所得が毎年1%ずつ増えたとしても、1997年の水準に戻るまでに10年以上かかります。
また、GDPが伸びたといっても、その間に海外のGDPはもっと伸びました。GDPをドル換算すると2012~2017年の間に日本のGDPは6.2兆ドルから4.9兆ドルに減りました。一人当たりGDPのランキングもOECD加盟国中11位から18位に下がりました。
はっきりしていることは二つ。「アベノミクス」が今まで以上に成功したとしても勤労者世帯の可処分所得がピークに戻るまでには時間がかかること。国際的に見れば、日本経済は地盤沈下していること。経済成長とはいっても、そういう風に冷静に見た方がいいと思います。
「中流意識」の陰で
家計が貧しい理由は簡単です。所得が足りなくて、貯蓄ができないからです。マクロでみると家計貯蓄率はおよそ2%(2016年「国民経済計算」)。収入と支出はほとんどトントンです。また、日銀の金融広報中央委員会によると、貯蓄がない世帯は2人以上世帯で31.2%、単身世帯は46.4%に上っています(2017年「家計の金融行動に関する世論調査」)。これでは豊かさを実感することができません。
もう一つ気になることがあります。「生活の程度」について内閣府の調査が聞いたところ、「中」(「中の上」「中の中」「中の下」の合計)と答えた人は92.7%に上る一方、「下」と答えた人は4.2%だけでした(2018年「国民生活に関する世論調査」(図1))。所得が伸びず、国際的な地位が低下しているのに、僕たちは自分たちのことを中間層だと信じているのです。この傾向は1964年に統計を取り始めてから一貫して変わりません。僕たちは「一億総中流」の意識の中で生きています。
しかし、ここにはかつてと異なる、重大な違いが二つあります。以前と比べて出生率と持ち家率が低下したことです。その意味はこうです。僕たちの社会は、持ち家と子どもを諦めることで人並みの生活を維持している。中流意識はそれらを諦めることでようやく維持できている、ということです。冷静に見ればこれは社会が貧しくなったということです。
自己責任の貯蓄から社会への貯蓄へ
僕は日本を「勤労国家」と呼んできました。勤労し、倹約し、貯金して、将来不安には自己責任で備える社会です。
しかし、これとは違う社会のあり方があります。みんなで税を払い、みんなで社会の蓄えをつくり、その蓄えで将来不安に備える方法です。
果たしてどちらの方法がいいでしょうか。日本では、貯蓄というと自分の資産、税というと取られるものという意識が根強くあります。でも、ここにはおかしな点があります。政府はたとえ税収が足りなくても、必要なものには税を支出します。その際に、足りない分は国債を発行して賄います。一方で、人々は稼いだお金を銀行に預けます。銀行は預かったお金で国が発行した国債を購入します。おわかりでしょうか。僕たちの預金は、銀行を経由して政府に貸し付けられています。こうなると、政府には銀行への利払い費の支払いが生じます。それは、年間少なくとも3兆~4兆円にも上ります。おかしいと思いませんか。
さらに、自己責任型の備えには、「過剰貯蓄」という大きな問題があります。自己責任で将来不安に備えようとすれば、自分がいつ死ぬかわからないので、人々は必ず余計にお金をため込みます。一方で、税によって備える場合はどうでしょう。政府は平均寿命を水準に備えをしておけば大丈夫なので、人々は税を通じて社会に貯蓄している分、手元に残ったお金をすべて使うことができます。これは自己責任で貯蓄するより、必ず景気刺激的になります。税によって拡充された公共サービスを人々が利用すると、人手が足りなくなり、そこに新たな雇用が生まれます。新しい資金循環が生まれ、経済成長にもつながります。
「社会への投資」がイメージする社会は、「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会です。自己責任で貯蓄に励まなくても、社会に蓄えをつくることで、不安をなくそうとする社会です。さらに、その蓄えによって雇用をつくり、新しい経済成長の循環をつくろうとする社会です。
財源を確保するには?
とはいえ、「社会への投資」をするためには、「社会的な財源」が必要です。お金がなければ投資できません。
医療や教育、介護、子育て、障がい者福祉──。こうした公共サービスを無償化しようとすれば、消費税は6~7%上げないといけません。加えて、毎年の財政赤字をなくそうとすれば10%強上げる必要があります。
この規模の増税を法人税や所得税だけでやろうとすれば何が起きるかを冷静に考えなければいけません。例えば、年収1200万円以上の富裕層に対して所得税を1%上乗せしても、それにより得られる税は1400億円程度にしかなりません。消費税1%分は約2.8兆円です。それと同じ額を得ようとすれば、所得税を20%上げないといけません。また、法人税1%分は、5000億~6000億円です。消費税1%分に換算すれば、法人税は5~6%程度上げなければいけません。果たして、それが現実的な手段でしょうか。
率直に言って、生活保障を抜本的に改善するためには、消費税は無視できません。僕は税について、「大企業や富裕層から取ってくればいい」という嫉妬と憎悪で語るのはやめるべきだと訴えています。消費税率の引き上げによって、貧困層を含めて、すべての人が痛みを分かち合う。だからこそ、大企業や富裕層も応分の負担もする。このように、消費税を軸としながら、所得税や法人税、金融資産課税などをバランスよく上げていく、「税のベストミックス」が必要だと言い続けています。
また、国が借金をしてそれを財源に使えばいいとも考えていません。大切なのは、あるべき社会の姿を語ることです。家族や仲間が暮らす、愛すべきこの社会で苦しんでいる人たちがいる。その痛みをみんなで分かち合いながら、すべての人が安心して生きている社会を僕は子どもたちに残したい。これは人間観、社会観の問題です。痛みがないから借金でいいというのは浅薄すぎる。右派や保守主義者も、誰もが安心して生きていける社会を求めるべきです。
危機の時代こそ助け合う
日本は租税抵抗が強い国です。消費税を言い出した途端、左派から反対論が出てきます。しかし、今言ったように法人税や所得税だけでは、不十分です。その議論を避けているから、生活保障も十分に提供されないまま、今に至っています。
消費税は、貴族にも掛かる公平な税として生まれました。タックスヘイブンが問題となっているように、政府が税金を掛けようとしても資産はどこまでも逃げていこうとします。でも、消費税は資本や貯蓄を海外に動かしても、物を買えば必ず補足できます。消費税は富裕層を含めてきちんと補足できる税なのです。
大切なのは、得た税金をどう使うかです。消費税には逆進性があると言っても、高額の商品・サービスを購入する富裕層は、たくさん税金を払います。それをみんなに再分配すれば必ず格差是正になります。左派は消費税を、貧困層を直撃する悪い税と言いますが、税として集まったお金をきちんと使えば格差は必ず小さくなります。
財政再建を優先する人にも言いたい。増税が痛みばかりをもたらすならば、この先も増税は不可能です。税によって暮らしが楽になったという実感を持ってもらうことで初めて、中・長期的な財政再建が可能になります。
日本は、欧州に比べ租税負担率が低い国なので、それを上げる余地がまだあります。それにより、ベーシック・インカムではなく、ベーシック・サービスを提供するべきだと訴え続けています。ただし、税にのみ頼ることの限界もあります。そのため僕は「公共私のベストミックス」を提唱しています。危機の時代は相互扶助の時代です。僕たちは助け合わなければ生きていけない時代に生きています。だからこそ、痛みと喜びをともに分かち合う「オール・フォー・オール」の視点が必要なのです。