特集2019.01-02

政治とのつながりを見つめ直すいくつかのメッセージ「弱者救済」に怒り出す人々
新しい利害関係こそが必要

2019/01/15
江戸時代から脈々と続く「自己責任」社会。これに対し、税によって、みんなの暮らしを支え合う社会をつくることはできるのか。今求められている財政の考え方とは何か。
井手 英策 慶応義塾大学教授

勤労・倹約の伝統

財政とは本来、誰かのために存在するのではなく、自分も含めたみんなのために存在するものです。専門的には共同需要の共同充足と呼びますが、みんなが必要とするものだから、みんなが受益して、みんなで汗をかいて税を払う。これが元々の仕組みです。

ところが日本では、この20年間、財政危機と無駄を省けの大合唱が繰り返された結果、財政が私たちの暮らしのために何かをしてくれるという発想が弱まりました。税は誰かに取られるもので、自分には返ってこない。人々がそう感じれば、財政への関心が薄れるのも当然です。

税を支払っているのだから、その見返りとして暮らしの安心を手に入れるのも当たり前です。でも、日本では勤労や倹約といった自己責任の論理が強く、税を支払った見返りを施しと受け止めてしまう傾向があります。

もちろん、いくら自己責任論が強いとは言っても、助け合いや支え合いは日本にもありました。ただし、それはコミュニティーの内側に限定されたものでした。江戸時代の村請制度を例に挙げましょう。村単位で納税するこの仕組みの下では、誰かの怠惰は誰かの負担になりました。だから、自分の負担が増えないように村の中の怠惰な人間でも救済しないといけない。いわば強制された救済でした。

その中で、「勤労の美徳」「働かざる者、食うべからず」といった勤労や倹約、自助努力の価値観を中心とする通俗道徳が、日本社会に深く根を下ろしていきます。江戸時代が終わり、村請制度が廃止され、個人が納税の単位となると、社会的弱者へのバッシングが始まりました。明治期に福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並んで、ベストセラーになった著作にS・スマイルズの『自助論』があります。この本には「良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性も忘れるだろう。保護や抑制も、度が過ぎると役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである」「いちばんよいのは何もしないで放っておくことかもしれない」と書いてあります。人を助けてもろくなことがないという価値観が共有されていました。それは、懸命に働いても豊かになれない一方で、救済を強いられてきた人たちの怒りの表れでした。

「困っている人がいたら助けましょう」という価値観は、人間にとって説明不要で普遍的なもののはずです。でも、明治期の日本でも、今の社会でも、助けられる人たちは「かわいそう」というより「情けない」と考えられがちです。豊かな時代はよかった。でも今はみんなが貧しくなりつつあります。法哲学者の井上達夫が言うところの「共在感」=ともにある感覚も壊れかけています。リベラルが嫌われるのは、この前提を無視して、「助け合う」ことを連呼しているからかもしれません。

財政の原点に立ち返る

では、どうすべきでしょうか。僕は財政の原点に帰ろうと訴えています。財政の原点とは「必要主義」です。人間が生きていくために必要なものがある。それは人間であるからにはみんなに配られなければならない。そのためにみんなを受益者にしながら、みんなで汗をかこうということです。これが財政の原点です。

日本社会は、「罰」という考え方が強い社会です。近世の村社会にしても、終身雇用・年功序列を中心とした企業社会にしても、組織への従属によって安定を得られる一方で、組織を裏切ると大きな罰を受ける社会です。このような社会の「縛り」が1990年代後半には解体され、むき出しの個人が現れるようになりました。こうした状況では、共同体秩序の中にいるよりかは、他者を裏切った方が自分の利益につながります。

このような現状に対して僕は、新しい利害関係をつくらないといけないと訴えています。バラバラになった社会を統合するための方法は、暴力かイデオロギーか利害調整か、この三つしかありません。暴力による統合がすぐにないとすれば、残るは後者の二つです。イデオロギーによる観念的な国民統合の萌芽はすでに見えています。

かつて、伊藤博文や山縣有朋は、近世的な農村秩序を意図的に維持する一方で、社会政策によって人々を救済せず、人々が困難に直面したとしても、コミュニティーの中の自助努力で解決させようとしました。それは社会政策によって、市民という階層が生まれ、選挙によって異議申し立てされることを防ぐためでした。だから、国民統合のためには、富国強兵のようなイデオロギーが用いられました。

これに対抗するためには、村落や企業に代わる、ともに生きることがすべての人々の利益になるような新しい利害関係をつくらなければなりません。それが必要主義です。フランスの思想家ルソーが言うように、「何が違うか」を議論する社会は分裂します。違いを比べるのではなく、「何が同じか」を考えると、そこに社会が誕生します。それが冒頭に述べた共同需要であり、みんなが必要とするからこそ、みんなで支えようとなるのです。そのように暮らしに必要なものをベースにした政策は、党派やイデオロギーを超えていきます。何がみんなに必要なのかは、みんなで話し合って決めます。だから、対話が必要になり、民主主義が求められます。

連合は立憲民主党、国民民主党と政策協定を締結した(11月30日)

普遍主義の浸透

みんなを受益者にするという普遍主義的な社会保障の考え方は、すでに日本社会に広がりつつあります。連合が11月末に立憲民主党と国民民主党と締結した政策協定書にもそれは表れています。この政策協定には、「負担の分かち合いと社会の分断を生まない再分配」「誰もが安心して働き・暮らすことのできる社会保障制度の再構築」と書かれています。まさに普遍主義的な考え方です。また、10月の日弁連の人権大会でも決議文の中に「普遍主義の社会保障・人間らしい労働と公正な分配」という項目が盛り込まれました。弱者救済の社会保障から、もっと普遍的な新しい形の再分配と負担のあり方が共有され始めています。

「世界価値観調査」の日本の結果からもその傾向は読み取れます。「他人を犠牲にしなければ豊かになれない」という問いに賛成する人の割合は、1990年の24.8%から2010年には38%へと上昇しました。一方、「国民みなが安心して暮らせるよう国は責任をもつべき」という問いに対する回答は、1990年に63.2%だった賛成の割合が、2010年に76.4%に増えました。自己責任で生きるためには他人を蹴落とさないといけないと思いつつも、みんなが安心して生きていける社会を求めている、ということです。こうした状況では、低所得者層だけを救済しようとすると反発が生まれます。みんなが受益者になる普遍主義的な社会保障が求められる理由です。

近世以来続いてきた自己責任社会が現代まで変わってこなかったというのはその通りです。でも、変えようと思えば変えられます。財政に対する不信感も税の使い道をはっきりさせれば、国民の理解は得られます。イデオロギー的な国民統合に引きずられないためにも、普遍主義に基づく、暮らしの安定は絶対に欠かせないのです。

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