特集2019.01-02

政治とのつながりを見つめ直すいくつかのメッセージ不満はあるけれど野党も嫌い
「批判嫌い」の行きつく先は?

2019/01/15
政治に不満はあっても、それが野党への支持に直接つながるわけではない。むしろ、野党の支持率は低迷したまま、若年層の自民党支持率は高い。背景にあるのは何か。「批判嫌い」という観点から探る。
野口 雅弘 成蹊大学教授

抵抗する人が嫌い

2018年7月に「『コミュ力重視』の若者世代はこうして『野党ぎらい』になっていく」という論考をウェブメディアで発表したところ、大きな反響がありました。

野党嫌いの一方、各種調査から、10代後半から30代前半の自民党支持率の高さがわかります。確かにそうなのですが、学生を見ていても改憲を強く支持するような安倍政権のコアな支持層はそう多いように思えません。また、杉田水脈議員の「生産性発言」に同調する若い人を私は知りません。むしろ最近の若者たちは以前よりはるかにダイバーシティーに寛容です。

若年層の自民党支持率はなぜ高いのでしょうか。それを考えたところ、「反対することや抵抗するという振る舞いが若年層からとても嫌われているのではないか」とあるとき思い至りました。杉田議員の発言を肯定する人はいませんが、でも、杉田議員の発言を強く批判する人たちはもっと嫌がられる。

以前、ゼミ合宿を沖縄で行いました。学生たちは知識をある程度身に付けると沖縄がひどい状態に置かれていることを理解します。でも、座り込みのような直接行動に対しては、「それは無理です」と嫌悪感を抱きます。つまり、自民党が積極的に支持されているというより、自民党のアンチに対するアンチが強く、そうした姿勢が結果的に自民党政権を支えているのではないか、というのが冒頭の論考に書いたことです。

アンチが嫌われる理由

なぜアンチが嫌われるのか。おかしいことをおかしいと言うことや、抵抗することがなぜ忌避されるのか。そのことを考えなければ批判する側はいつまで経っても嫌われたままで、むしろ、おかしいと言い続けるほど、若い人たちが引いていってしまいます。正しい批判を続けていれば、「春が来る」と楽観視すべきではありません。

大学で学生と接していると、学生たちが過剰なくらい丁寧にコミュニケーションを取っていると感じます。友達がいないとか、仲間外れにされるといったことに強い恐怖感を抱いています。大学のAO入試や、企業・公務員の就職試験で「コミュニケーション力」が重視されるほど、場を壊すとか、面と向かって批判するといったことが嫌われるようになっているのではないかと思います。

若年層のこのような振る舞いの背景には、選択の幅が狭くなっていることがあるのかもしれません。かつての学園ドラマでは、いわゆる「不良少年」に対し、教師は警察を呼ばず、粘り強く対話するシーンが描かれました。けれども最近の学校では警察を呼ぶことも増えていますし、退学処分のハードルも下がっています。以前に比べて学校という社会から排除されやすくなったということです。

一方、社会的に見ても冷戦崩壊後、良いか悪いかは別にして、市場経済と代議制民主主義以外の選択肢がなくなり、「誰がやっても政治は同じ」と思われるようになりました。そうなると、その世界の中でどうやって実益を取っていくかが人々の考えの中心になり、抵抗する人たちは一部の変わり者と見られるようになりました。選択肢がないのであれば、この中でなんとかうまくやっていこうと考えるのも当然です。そうした傾向の強まりの中で、批判を避ける風潮が広がっているように思います。

批判嫌いの弊害

ただ、批判することを避けてばかりいるのは、やはり問題があります。安倍首相は野党のことを「批判ばかりしている」と批判しますが、野党があるテーマに対して、問題点やリスクを整理して提示してくれなければ、有権者はその政策の是非を判断できません。ある決断に当たって、問題点やリスクが示されないまま、物事を勝手に進められては有権者も困ります。批判的な議論を通して、考える機会を提示するのが野党やメディアの役割です。野党の批判を少なくすれば、それだけ有権者がものを考える機会が減ると考えるべきでしょう。

また、学校や職場のような小さなコミュニティーと、国会での与野党のコミュニティーでは、同じコミュニケーション規範が成り立つわけではありません。前者の規範を後者に当てはめようとするのは、例えて言うなら、プロボクシングの試合を見て「暴力はよくない」と言うようなものです。国会でのやりとりは、通常の小さなコミュニティーにおけるコミュニケーションとは異なる手法が求められることを確認すべきです。批判をして有権者に政策の問題点を明らかにすることは、政党政治における野党の大切な役割の一つです。この機能を改めて見つめ直すべきだと思います。

対案主義はどうか

対案を出せないなら批判すべきではないという意見もあります。ただ、これでは「おかしい」と声を上げること自体を抑圧することになりかねません。対案がない抵抗運動には意味がないという人もいますが、私はそうは思いません。フランスで起きた「黄色いベスト」運動に明確な対案があったかといえばそうではありません。「おかしい」という声が共感を呼んで、デモに参加する人が増え、後からその行動の意義を説明する人や、対案を考える人が出てくる。その結果、政府も一定の譲歩をしました。まず声を上げてみて、その理由や対応策は後から議論する。こうしたプロセスは健全だと思います。

また、批判的な議論が忌避されている間に、力のある人たちの主張がどんどん通ってしまうという問題もあります。マックス・ウェーバーは『仕事としての学問 仕事としての政治』でカネ持ち支配のことを「プルートクラシー」と呼びましたが、近年その傾向がますます強まっています。人々が「おかしい」と言わなければ言わないほど、資金力のある人たちは抵抗を受けずに権力に近づき、発言力を強くすることができます。批判はよくないと言うほど、批判を忌避する一般の人々が発言力を失う状況にあるのではないでしょうか。

批判嫌いを乗り越える

「おかしい」という声を拾い上げてきたのが、労働組合でした。野党は英語で「オポジション」(opposition)と言いますが、オポジションは議会内に限定されません。議会の外で政府に対して不満を持つ人もそう呼びます。多くの場合、議会の外のオポジションの人たちは、議会内のオポジションとつながりを持ちます。ところが今の日本では、そうなっていません。一般の人々が持つオポジションの感覚が議会に反映されないことは健全ではありません。労働組合にはそのつなぎ役としての機能を期待しています。

批判嫌いを乗り越えるためには、党派を超えて考えの違う人たちと議論し、妥協点を見いだすような訓練が必要だと思います。労働組合はそうした訓練の機能も担ってきました。議会内・外のオポジションのつなぎ役として、そして政治的議論の訓練の場として、今その存在意義が問われているのは、まさに労働組合ではないでしょうか。

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