沖縄復帰50年
復帰に託した願いと
次の時代に託す思い基地のない平和な沖縄へ
沖縄県民の願いをかなえるために
復帰の際の願い
沖縄の日本復帰50年に当たり、まず大切なのは、沖縄県民の皆さんがこの半世紀をどう振り返り、どう評価しているのか、その声を真摯に聞くことだと思います。
戦後、沖縄の人たちは米国の統治下で、「銃剣とブルドーザー」によって土地を接収され、戦闘機の墜落や殺人事件を含め相次ぐ事件・事故に見舞われ、人権侵害や差別を受けてきました。
そうした中で沖縄県民の皆さんが切望したのは、基地のない平和な沖縄でした。日本に復帰すれば日本国憲法の下で人権・平和が保障される。過重な基地負担がなくなり、それに伴う事件・事故が減る。そうしたことを期待していたのに、ふたを開ければ復帰の前提に基地の存続があったのです。
結果、沖縄の皆さんにとって復帰はゴールではなく、基地のない平和な沖縄を実現するための新たなスタートとなりました。ですから、50年という節目に当たって私たちは、復帰の際にかなわなかった沖縄県民の皆さんの思いをどれだけ実現できたのかを振り返り、その実現に向けた新しいスタートを切る機会にしなければいけません。
二項対立からの脱却
国はともすると復帰のプラス面だけを強調しますが、それだけではないはずです。確かに、この50年で生活インフラが整備され、利便性は向上しました。しかし、沖縄県の県民所得は今もなお全国最下位で、子どもの相対的貧困率も全国ワースト1位です。米軍による事件・事故も後を絶たず、新基地建設が県民の意に反して強行的に進められています。こうした現実は、沖縄の皆さんが復帰の際に期待していた姿とは違うはずです。
2009年に翌年の参議院議員選挙に向けて全国行脚を始めたとき、当時の沖縄県協議会の濱元議長から、「これまでは基地か経済かの二項対立だったが、これからは違う。基地の整理縮小と経済成長を同時に実現していくことが大切だ」と問題提起されました。まさにそのとおりで、私は国会議員の活動の中で、その実現のために「沖縄及び北方問題に関する特別委員会」や超党派「沖縄等米軍基地問題議員懇談会」などで積極的に活動してきました。
民主党は2012年の政権時代に、沖縄振興特別措置法の改正法を成立させます。この法律では、振興策が県民の暮らしの向上、豊かさにつながるものでなければいけないという考えに基づき、振興計画の主体を初めて沖縄県にしました。その上で、県民主体で使い道を決められるよう、一括交付金制度を設けて、県や市町村が住民の意見に基づいて自由に交付金を使えるようにしたのです。それまでの振興策では、分配される予算が県外の大手企業に流出してしまうことも少なくありませんでした。
ところが、自民党が政権に就き、翁長知事が辺野古新基地建設に反対するようになると、自民党は振興予算自体を減らすとともに、県や市町村が自由に使える一括交付金を減らし、使途が決まった直轄予算を増やしていったのです。さらには、基地受け入れに賛成する自治体には特別な交付金を支給します。露骨な「ムチとアメ」政策です。
自民党政権は、こうして基地か予算かの二項対立を作り、住民を分断させ、対立をあおって、強行的に物事を進めてきました。私は、国会で怒りを持ってこうした政権のやり方を追及してきました。
平和、人権、労働者の権利
この状況を変えるには、政治を変えなければいけません。
沖縄にこそ、民主主義があります。沖縄の皆さんから学んだことは、「勝つことを諦めないこと」。諦めて喜ぶのは相手です。辺野古新基地建設反対の最前線で奮闘する皆さんは絶対に諦めず声を上げています。私たちもその姿勢に学ぶことが大切だと思います。
政治を変えるためには、多数派を形成しなければいけません。そのために私は、アメリカの民主党の議員と直接交流する議員外交も展開してきました。アメリカ民主党のプログレッシブ議員連盟のパートナーとなる議員連盟を日本につくり、先日は、核兵器不使用に関する共同署名・共同声明を出しました。画期的な取り組みだと思います。こうしたつながりを沖縄の基地問題の解決にもつなげていきたいと考えています。
国会議員になる前、国際労働運動に身を置いていましたが、そこでは平和と人権、労働者の権利は密接不可分のものとして扱われていました。平和のためには、労働者の権利を保障し、差別や格差をなくしていかなくてはいけません。その経験が沖縄への私の思いにもつながっています。復帰の際、かなえられなかった沖縄の皆さんの思いを少しでも前進させるべく、今後も全力を挙げて取り組んでいきます。