特集2022.05

沖縄復帰50年
復帰に託した願いと
次の時代に託す思い
復帰運動の中心にあった労働組合
労働条件の切り替え巡り公社と交渉

2022/05/13
復帰を巡って労働組合はどのような役割を果たしたのか。復帰を巡る労使交渉がそこにはあった。復帰50年に対する思いも含め、全電通(現NTT労組)の沖縄県支部で活動した2人の先輩に話を聞いた。
黒島 善一 元・全電通沖縄県支部
委員長
たく 勝雄 元・全電通沖縄県支部
交渉部長

復帰への思い

労働組合は沖縄の祖国復帰運動の中心的存在だった。1960年に結成された「沖縄県祖国復帰協議会」では、多くの労働組合が呼び掛け団体に加わり、運動をけん引した。

「中でも沖縄全逓(全電通沖縄県支部の前身、1971年に全電通と全逓に分割)の果たした役割は大きかったと自負している」と話すのは、全電通沖縄県支部の元委員長である黒島善一さんだ。全電通沖縄県支部の初代委員長である桃原用行さんは、「沖縄県祖国復帰協議会」の3代目の会長となった。経営団体が復帰協から抜けていく中で、最後まで一貫して運動をけん引してきたのが労働組合だった。

当時の沖縄の雰囲気はどうだっただろうか。「平和憲法のもとに帰ろうという意識は強かった」と黒島さんは当時をそう振り返る。米軍基地がなかった八重山諸島でも、正月になると多くの家が玄関に日の丸を掲げていたという。

「米軍支配から脱却するには、祖国に帰れば何とかなるという思いが当時はあった」。こう話すのは、復帰当時、全電通沖縄県支部で交渉部長だった澤岻勝雄さんだ。多くの人が、日の丸の旗を掲げて行進することを誇らしく感じていたという。「研究者の中には、復帰の条件に疑問を投げ掛ける議論もあったが、一般人からすれば祖国に帰りたいという思いが強かった」と振り返る。

復帰協のメンバーが総評の招きで全国各地に赴き、沖縄の実情や祖国復帰への思いを語るという運動も展開された。黒島さんもその活動に参加した。「大学の講堂に集まった学生が熱心に聞いてくれた。大きな盛り上がりがあった。NHKの取材も受けた」と振り返る。復帰への熱い思いがそこにはあった。

全電通も沖縄県民と連帯して
11・19スト(71年)を決行した

労働条件を巡る闘い

沖縄の本土復帰により、琉球電電公社の職員1700人が、日本電電公社の職員として身分を引き継がれることになった。労働組合は、祖国復帰運動だけではなく、復帰に伴う労働条件交渉でも大きな役割を果たした。

1960年代まで琉球電電の労働者は、郵政、電電を統合する沖縄全逓を組織して活動していた。本土では全逓と全電通が別々に活動していたため、復帰後の労働条件を整理するために、組織のあり方が検討課題として持ち上がった。

沖縄全逓は、全電通や全逓などとの協議を重ね、復帰の約1年前となる1971年7月31日の第27回定期大会で、郵政と電電の二部門に分割し、全逓と全電通にそれぞれ組織統合することを決定した。翌8月1日には、全電通沖縄県支部の結成大会が開催された。さらに翌72年5月に、国際部門の組合員がKDD労組に加盟することを決定し、沖縄電通共闘の結成も確認された。

復帰に伴う労働条件に関しては、全電通本部が1970年に電電公社に対し「沖縄復帰に伴う労働条件等の取扱いに関する要求書」を提出し、交渉を進めてきた。

基本給をはじめあらゆる労働条件が交渉の対象になった。その項目はかなりの数に上ったため、全電通本部と沖縄県支部などが連携して項目ごとに担当者を決め、交渉に臨んだ。

その中でも最後まで残ったのが、基本給の扱いだった。

復帰に伴う最大の課題は、当時ドルで支払われていた賃金を円に切り替える際、そのレートをどうするかがだった。

1970年当時、為替相場は1ドル360円の固定相場制だった。しかし、1971年、いわゆる「ニクソンショック」により、その年の12月に為替レートは1ドル=308円に変更された(1973年に固定相場制から変動相場制に移行)。交渉が進められる中で、為替相場は大きな変化に見舞われていた。

こうした中、全電通は360円換算による賃金の持ち込みを要求していた。澤岻さんは「賃金が360円換算で支給されるかが最大の関心ごとだった」と振り返る。澤岻さんは、沖縄県支部のほかの役員とともに上京し、全電通本部の役員と一緒に電電公社と深夜までの交渉を繰り返したという。その結果、最後は360円換算で妥結した。全電通運動史は、「復帰要求にかかわる交渉は基本的に沖縄組合員の期待にこたえた形で最終結論に到達」したと、運動の成果を振り返っている(『全電通運動史 第7巻』)。沖縄の本土復帰の背景には、こうした本土の労働組合の強力なサポートがあった。

50年後の思い

復帰から50年を迎えた今、復帰運動や労働運動をけん引した先輩たちは何を感じているだろうか。

澤岻さんは、「日本政府から踏んだり、蹴ったり、殴られたりしている。復帰すれば何とかなると思っていたのに、こんなはずではなかったという思いが強い。日本は独裁政権の国ではないが、多数決によって沖縄が虐げられている。政府だけではなく、裁判所も一緒になって沖縄に基地を押し付けている。悔しい思いでいっぱいだ」と話す。

一方、黒島さんは「面倒くさいことを本土から遠く離れた沖縄に押し付けておけばよいという考え方があるのではないか。基地はできてしまえば、ずっと使われることになる。それだけは避けたい。私の自宅の真上を米軍機が飛んでいる。騒音は子どもたちの学業にも影響する。こうした現状を許し続けてきた日本政府の姿勢にも憤りを感じている」と率直な気持ちを語る。

復帰から50年。復帰に託した思いはかなえられていない。むしろ諦めのような気持ちもあると澤岻さんは話す。

「考えれば考えるほど、無力感が先に来てしまう。復帰前はアメリカによる支配だったが、復帰後は日本政府から虐げられている。声を上げ、選挙や県民投票で意思を示し続けても、否定され続けている。こういうことが繰り返されると、諦めの雰囲気も出てきてしまう」

黒島さんも「無力感はあると思う」と認める。ただ、それだけではないとも話す。「だからといって何もしないわけにはいかない。ダメなものはダメ。騒音は騒音。小さなことでもいいから、体力の続く限りできることをしていきたい」。

次の50年を担う若い世代に向けて伝えたいことも聞いた。すると2人とも新聞に目を通してほしいと話した。黒島さんは、「少しずつでいいから新聞を毎日読んで、社会で何が起きているのかを知ってほしい」と語った。

黒島さんは、情報労連沖縄県協議会の活動で、若い組合員に戦前の教育などについて話す機会があった。「労働組合がこうした取り組みを続けてくれることに感謝したい。記憶を語り継ぐ活動をこれからも続けてほしい」と訴える。

労働組合は復帰運動をけん引し、働く人の労働条件を守り、平和を守る取り組みを続けてきた。その役割は次の50年も変わらないはずだ。

変わらぬ構造を認識してほしい

取材に同席した連合沖縄・砂川安弘事務局長(情報労連出身)のコメント

「50年前、復帰協は、即時無条件全面返還を求める決議や経済格差を是正する要求を掲げていた。しかし復帰から50年たった今も、米軍専用施設の約7割が沖縄に集中し、県民所得は全国最下位で、子どもの相対的貧困率もワースト1位。振興策は本土のゼネコンに利益が流れる『ざる経済』と呼ばれてきた。米国にモノを言えない日米関係も変わっておらず、日本社会の中の沖縄の立ち位置も変わっていない。本土の皆さんには、この変わらない構造をまずはきちんと認識してほしい」

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