仕事における「監視」を考える

新人時代の上司は「鬼」と呼ばれていた。彼は最年少で営業マネジャーとなった。彼が率いる大阪営業グループは「虎の穴」と呼ばれる「常勝軍団」だった。毎朝の朝礼では、彼が定めた「虎の穴のおきて」を全員で斉唱していたという。徹底した行動マネジメントが行われ、ある先輩は机の中にしまっていた手帳をいつの間にか見られ、予定の空白部分に「アポ入ってへんで。何やるん?」と書き込まれていた。
私が彼のグループに配属された頃には「丸くなった」と言われていたが、それでも十分に厳しかった。営業手帳を覗き見られることはなくなったが、グループウエアのスケジューラーは共有され、行動量については徹底的に指導された。それは愛のある指導、きめ細かなマネジメントだったのか、それとも過度の監視だったのか。
働く上での「監視」といえば、コロナ禍に広がったリモートワーク下での「リモハラ」が思い浮かぶ。部屋の様子を映せと迫るプライバシー侵害、カメラを常時オンにさせて働かせるケースなどが問題となった。上司からすれば、部下が本当に働いているかどうか不安なのだろう。しかし、これは「人間の上司」が直接カメラで確認するケースである。アクセス状況などから、仕事の取り組みをシステムが監視することも可能になっている。これをどう捉えるべきか。
こうした職場での経験や問題を考えると、公共空間での監視の是非も気になってくる。情報社会学者の友人によれば、監視カメラを肯定的に捉える若者が増えているという。凶悪犯罪、特にストーカー事件が報じられる中、安全を守るために必要だと考えるのだろう。一方で、常に監視カメラに見られている状態が続くことにもなる。
監視はさらに日常生活にも及ぶ。SNSに投稿した何気ない写真やコメントに、「サボっていたのか」「このマナーはいかがなものか」といった指摘が飛んでくる。匿名のアカウントからの誹謗中傷も不愉快だが、職場の上司や同僚、友人・知人からのコメントに監視されていると感じることもある。遠距離恋愛のカップルが、毎日帰宅してから寝るまでLINEのビデオ通話をつなぎ続けるという話もある。仲むつまじい関係と見るか、監視と捉えるべきか。
人による監視だけでなく、システムによるデータ監視の時代にも私たちは生きている。これらのデータは息苦しさをもたらす一方、職場環境の改善につながることもある。例えば、フリーアドレス制を導入し、出社判断を事業部ごとに任せるというオフィス改革を行った企業は、社員全員にBluetooth接続デバイスを装着させ、行動を解析した。そのデータが改革の判断材料となったのである。ログが働く環境を改善する場合もあるのだ。
ますます「監視」なのか「温かいマネジメント」なのか、安全管理なのか、その線引きは難しくなる。だからこそ必要なのは、「監視されているかもしれない」「これは監視につながるのではないか」という危機感である。私たちは立ち止まり、考え続けなければならない。
