特集2016.01-02

働く人のための「民主主義ってなんだ?」現場労働者が痛切なニーズのために闘う権利を何よりも大切にすること

2016/01/26
「民主主義」の諸制度の中で、働く人にとってもっとも大切なのが「産業民主主義」だ。それがあるからこそ、働く人たちは職場の日常を自ら変えることができる。
熊沢 誠 甲南大学名誉教授

国会前と日常の界隈

産業民主主義を語る前に、国会前デモのことについて触れさせてください。昨夏に大きなうねりを見せた安保法制反対運動は、若者たちを中心に組織動員ではなく個人の主体的な参加が多かった点が強調され、そのことがいつも肯定的に紹介されました。確かにSEALDSのスピーチは、表現や訴え方がとても新鮮で、その内容も非常に感動的なものでした。

それでも、個人の参加という光に伴う影の領域を指摘しておきたいと思います。若者たちの発言が心を打つ一方、その中には、日常生活では自分の意見を言えずに孤独だったという訴えが散見されました。デモという空間は非日常の祝祭的な空間。そこから日常生活に戻ったときに孤独や孤立を感じている若者が多いということなのでしょう。

普通の人々は、日常的にはそれぞれが属する身近な小社会=界隈(かいわい)の中で生きています。例えばそれは家族、教室、友人との親密圏、そして職場などです。人々の生活はその中で営まれるのですが、その空間ではふつう強力な同調圧力が働いています。その圧力の中身は、権力に対するある種のシニシズム、世俗的・経済的な世知、政治的無関心などの立ち込めた空気でしょう。

私は市民運動の代表も務めてきましたが、商店街でビラを配ると、よく受け取ってくれるのは女性で、一番受け取らないのはスーツを着た男性サラリーマンです。こうした事実を踏まえてわかるのは、企業社会の論理から遠くにいる人ほど、反戦や民主主義擁護の運動に関心を寄せてくれるということ。それは、多くの人が日常の界隈の中では、「民主主義」の実在を実感できていない、つまり小社会の中では自由に発言することができていないからです。そこが最大の問題です。

その点でもっとも典型的な界隈は、国民の多数が日常を生きる職場です。そこに民主主義を打ち立てることが不可欠です。その職場という界隈での民主主義がほかならぬ産業民主主義なのです。

「国民」対「労働者」

─産業民主主義の概念とは?

法的にみれば労働三権のことを指します。しかし思想的にはその意義はもっと深い。民主主義の神髄とは、人々の生活に大きく影響することについて、その人々に発言権や決定権があることだと考えましょう。労働者の生活にとって最大の影響を及ぼすのは労働条件や職場の雰囲気です。それらの決定に関しては、国民の多数決による決定の前に、そこで働いている人たちの痛切なニーズにもとづく要求を認めること、ときには労働者が労務提供の拒否をもってそのニーズを社会に突き出すことができること。こうした理念が産業民主主義なのです。

この考え方に基づけば、現場の労働者のニーズと国民のそれとは必ずしも一致しないことがわかります。その際、国民の多数決のみを優先し、それぞれの現場で働く人たちの交渉する権利や要求を軽視すればどうなるでしょうか。それは国民という多数者による労働者という相対的少数者への抑圧を招きます。現実には、労働条件は悪いほうが消費者=国民一般にとってプラスになることさえあります。だからこそ少数者=現場労働者の権利を守るために、労働条件に関する労働者の発言権・決定参加権が大切なのです。こうした認識からふつう産業民主主義は、先進国の民主主義システムの不可欠な一環として承認されているのです。

─産業民主主義で労働者が求めるものとは?

産業民主主義で大切なのは、なによりも労働条件に関する発言権と決定参加権です。それによって、いくらか体調不良でも働き続けられる「ゆとり」や、助け合える「仲間」、少なくとも日常の仕事のことは決めることができる「一定の参加権」などを獲得することができます。

その上に、「労働者個人の市民的自由の確保」を加えたいと思います。労働契約を締結している以上、業務命令は基本的に拒否できません。けれども明らかな業務命令違反でない限りでの政治的発言や行動の自由は認められるべきです。

日本の人事評価システムは、「生活態度」もその対象としていることから、そうした発言や行動がしづらい状況があります。企業社会の中は自由な政治的討論ができない窮屈な状態です。大阪市で行われた職員への調査などは現場労働者の市民権を抑圧するものであり、産業民主主義を否定するものだと言えます。

「立身出世主義」の弊害

─日本で産業民主主義の考え方はなぜ弱いのか?

いくらか脇道にそれますが、良質のマスコミは、過酷な労働問題や深刻な貧困問題を、事例をもってきちんと取り上げはします。けれどもそうした実態の解決については、労使関係や労働組合機能の視点からアプローチする報道はほとんどありません。問題の解決策としては法律や行政を語るばかりで、今では産業民主主義や組合運動の強化によって改革できるという意識がまことに希薄なのです。

こうした思想状況を生み出した背景は重層的で複雑です。戦前からのしがらみもあります。近代日本の統治システムは天皇制下の「四民平等」を建前としました。しかしそれはあくまで「建前」。実際はむろん厳しい階層社会で、しかるべき人が政府や企業内での要職につきます。この本音と建前の溝を埋めるために鼓吹されたのが「立身出世主義」です。がんばれば「上」に上がることができる。そう信じこませて国民統合を図る「平等」の裏面こそが、労働者がノンエリートのままで生活と権利を要求し闘う方法、つまり産業民主主義の断固たる拒否だったのです。

では、労働三権のある戦後はどうか。企業社会に入ると年功制で、入社当時は平等という建前です。しかし、戦後にも「立身出世主義」は生き続け、その後の人事評価システムの中で、労働者はやる気や能力によって次第に厳存する諸階層にわかれていきます。戦前、戦後を貫くこの「立身出世主義」ゆえに、労働者間競争を制限してノンエリートのまま闘う思想はどうしても希薄なままでした。

高度経済成長期になると、戦前の「四民平等論」が「一億総中流」の希求に展開します。春闘は高い賃上げ波及力によってその希求を一定程度達成し、国民運動の代表になりました。すると組織労働者の労働運動と国民全体のための運動との違いが意識されなくなり、そのことが労働者の立場のまま生活向上を訴える権利の闘いの意義を見逃すという皮肉な惰力を生み出したのです。私はこうした状況を「労働者≒国民」論と呼んできました。その把握が、「一億総中流」が幻想になった現在でも続いており、ノンエリート労働者が死守すべき産業民主主義の大切さをなお見失わせているかに見えます。

個人処遇を規制する

─どう対処すべきでしょうか。

一つには「能力主義の相対化」が必要でしょう。日本の能力主義は、労働者の潜在能力や「人間力」をも評価対象とし、労働者の「立身出世主義」受容の基盤となってきました。それは高度経済成長期には「上昇競争」として機能しましたが、低成長期、とくに90年代以降には「サバイバル競争」へと変化を遂げ、「成功」のおぼつかない多くの労働者を格差社会の底辺に追い込んでいます。

いま労働組合は、能力主義における能力の基準とは何か、人事評価による労働条件の格差がどの程度であれば許容できるのかをチェックしなければなりません。「査定の規制」が大切なのです。査定の対象や評価の幅を労使で交渉するのです。

もう一つは「個人の受難に寄り添う」ことです。労働条件は労働法や労働協約で一律に決まる部分と査定で決まる個人処遇の二つに分けられます。能力主義管理はこのうち個人処遇の割合を拡大させます。この個人処遇化が進むと、ある人が職場でつらい思いをしても、それは能力不足を理由とした「いわれある格差」とみなされ「個人の責任」とされてしまうのです。こうして、いじめやうつ病や過労死がその人だけの問題となってしまう。労働組合はこれらの問題を職場のごく少数者の問題とみなすことなく、個人の受難に寄り添い、個人処遇化のあり方の見直しにつなげていくべきでしょう。

組合民主主義の復権へ

─自己責任論を乗り越えるには?

先ほどの話に関連しますが、労働組合による規制のない能力主義的な選別は「いわれある格差」とはいえません。査定自体を否定しなくても、そのあり方に労働組合が介入しなければなりません。

他方、国民的多数の要求が特定労働者のグループを抑圧したり、職場労働者のグループが個人の労働者の切実なニーズを抑圧したりすることは、全体主義に通じる行為です。そうした観点では労働組合の中で自由に発言できる環境も大切です。

個人の人権は、その人が属している小社会がより上位の権力に対して対抗的である場合には擁護されます。しかし、その小社会が上位の権力と結びついて権力の走狗となると、権力に追随するボスの裁量次第で個人の人権は危機に陥ります。先ほど述べたように、人々はとかく強力な同調圧力が働く界隈の中で生活し、そこから抜け出すことが難しいからです。この文脈において組合民主主義が不可欠となるのです。その復権のためには、かつて盛んだった文化・サークル活動の復活も重要でしょう。

組合民主主義と産業民主主義の復権は、働く人々の全体と個人の人権をしっかりと支える車の両輪なのです。

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