特集2016.03

労働時間に上限規制を主権者として労働者が活動できる時間を

2016/03/17
日本の主権者は私たち一人ひとりなのに、長時間労働がまん延していれば、公共のことについて考える時間も体力も奪われてしまう。民主主義の大切さが問われているのにこれでいいのだろうか。
田端 博邦 東京大学名誉教授

民主主義社会の基礎は、ある社会を構成しているすべての人々は平等であるという理念の上に成り立っています。フランス革命以前の社会で、人々は平等ではなく、封建制に基づく支配者と被支配者にわかれていました。フランス革命はその関係を否定し、社会を構成するすべての人々は平等で、その人々が政治的決定を担うのだとしました。

しかし、実際の政治は、フランス革命後も事実上、旧来の特権階級が政治的権力を握り、19世紀の産業社会が始まるころでも、労働者のほとんどは政治的な決定から疎外されていました。選挙権を持っているのは、財産を持っている人、すなわち有産者たちだけでした。

そうした中で政治的権利を労働者に解放せよという運動が19世紀後半にかけてイギリスを中心に起こりました。労働組合はその間、選挙法改正運動を展開し続け、労働者が本当の意味で政治社会における市民、主権者になることをめざしました。

市民としての自由を求める運動へ

そうなると、労働者に必要になるのは、市民として活動できる時間の確保です。有産者階級は、資産と時間があり、政治的な活動をする余裕があります。他方、労働者たちは長時間労働により、政治的な活動をする余裕がありません。こうした生活実態の格差を取り払い、労働者がいかにして市民としての実態を獲得するかという方向に運動は展開しました。

「8時間労働」は、このような流れの中で労働者たちが打ち出したスローガンです。民主主義から疎外されていた労働者は、主権者の権利としての選挙権を獲得するのと同時に、労働時間を短縮する運動を繰り広げてきたのです。

労働者は政治的権利を獲得するために労働組合を主体にして政治参加するようになります。イギリスのTUC(イギリス労働組合会議)が労働党をつくったように、19世紀末から労働組合が主体となった政党が数多く設立されました。このように振り返ると、フランス革命はその理念どおり人々の平等を実現できませんでした。けれども労働者たちは自分たちの力で、自由や平等を勝ち取るために運動し、労働者政党を生み出し、権利を勝ち取ってきたのだといえます。

日本の労働運動は……

翻って日本の労働運動はどうだったでしょうか。長時間労働に関して労働組合は36協定を受け入れてきたという批判があります。確かにそういう面もありますが、それだけでは割り切れません。

戦後の労働時間統計を見ると、高度経済成長期から70年代初頭にかけて労働時間は短縮傾向にありました。他方で政治運動や護憲運動は、総評が積極的に展開し、職場の中での政治活動もかなり認められていました。このように日本の労働運動も主権者としての権利を勝ち取るための運動はかなりやってきたと思っています。

ただし、批判されたように、労働運動が市民のための時間の確保をあまりしなかったという側面もあります。とりわけオイルショック以降、労働者の働き方は、企業間競争に巻き込まれ、労働時間は競争に負けないように長くなりました。労働時間の短縮傾向はオイルショック前後にストップして、その後の87年の労基法改正により一度は下がったものの、その後はまた横ばいに戻ってしまいました。

その背景には、日本社会の企業内体質と、産業別労組の規制力の弱さがあります。労働組合が企業間競争を規制できないことにより、競争に歯止めがかけられずに、長時間労働を是正できなかったのだと言えます。

生活時間から考える

人間は1日24時間のサイクルで生活しています。これはとても当たり前のことですが、この問題を考えるうえで重要なことです。

労働者の生活時間を考えてみると、労働時間を1日8時間、これに加えて残業1時間、通勤の往復で約2時間、睡眠時間を8時間、入浴や食事といった肉体の再生産で約2時間とすると残りは約3時間です。この中で家事・育児、休養や娯楽、民主主義社会でほんらい必要な教養や勉強の時間を確保するというのはとても困難です。残業が恒常的に2時間あるとすれば、個人の自由な時間はさらに取れません。取れたとしても休日に疲れを取るだけで終わってしまうでしょう。

こうして見ると現状の長時間労働では、市民としての自由な時間は確保できません。ほんらいの民主主義の主権者として、国や地域の政治にかかわれなくなってしまいます。そうすると、政治は一部の政治家と高級官僚が取り仕切ることになり、実際の政治体制は官僚主導の「寡頭政治」とほぼ変わらなくなってしまいます。

民主主義に必要な時間

国民や市民が政治にかかわるには次の三つのことが必要だと考えています。一つは、市民が情報を収集すること。二つは、その情報に基づいて自分の考えをまとめる時間があること。そして三つは、市民同士で意見を突き合わせ討論する時間を持つこと─です。

このように考えると日本の戦後民主主義は、政治文化という面で欧米と比べると不十分であると感じられます。

例えば、アメリカは選挙があるたびに政党が地域集会を開催し、住民たちが討論する機会を設けます。また、選挙のボランティアスタッフはその活動中に有権者たちと時間をかけて議論したりします。これは運動員と住民が市民として対等な立場であるという根底の意識に基づいています。「あなたも私も同じ主権者」という意識があるのです。

もう一つはドイツの例です。ドイツも住民協議会に参加するためなら、当然のように退社できます。それは労働者が住民自治の権利を持っているとみんなが認識しているからです。

私たちが主権者である

こうした事例に比べて日本はどうでしょうか。一つに、長時間労働により物理的に主権者としての活動ができないという単純ですが、重要な問題があります。これに加えて、市民が自由に討論し、決定する場がないという問題があります。これは基本的人権を生かす場がないという問題と同じです。表現の自由といった基本的人権は、公共のことにかかわる場において生かされるものだからです。

働く人は労働者であると同時に市民でもあります。日本の就業者の8割を占める雇用労働者が市民として活動することができなければ、その国の民主主義は深刻な危機に陥り、内実のないものになってしまいます。生活者や主権者といったトータルな人間の存在として自分たちを認識するために、時間外労働を文字どおり臨時的なものに限定しなければなりません。それを単に理想と切り捨ててよいのでしょうか。私たちは、民主主義のほんらいの主権者は私たちであるということを認識すべきではないでしょうか。

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