特集2016.08-09

72年目の戦後責任
過去と向き合い、未来をつくる
自国礼賛で隠される戦争責任
「大日本病」の独善的な主観から脱却を

2016/08/17
「日本すごい」ブームの背景で、日本の戦争責任を認めようとしない動きが活発化している。自国のことを必要以上に美化することで発症する「大日本病」。戦前回帰の動きに警鐘を鳴らす山崎雅弘さんに話を聞いた。
山崎 雅弘(やまざき まさひろ) 戦史・紛争史研究家。『戦前回帰「大日本病」の再発』(学研)、『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)をはじめ著書多数。
Twitter:@mas__yamazaki

「大日本病」の発症原因

「大日本病」とは、必要以上に自分たちの国を美化し、その国民も国と同じように素晴らしい存在で、他国よりも優れているのだと善意で信じ込んでしまう心理状態を表現する言葉です。この病気にかかると、自国中心の独善的な主観でしか物事を見られなくなり、隣国をむやみに見下すようになります。

病気の症状で一番危険なのは、自国礼賛のファンタジーな世界と現実の世界を混同してしまうこと。こうなると合理的な判断を下すことができなくなります。

「大日本病」はなぜ生まれたのでしょうか。1930年代の日本では国民が自信を失う出来事がいくつかありました。一つ目は第一次世界大戦後の不況からなかなか脱却できず、特に農村は貧困に苦しんでいたこと。二つ目は満州事変が発端で国際連盟を脱退したこと。明治維新以降、西洋列強を手本に先進国の仲間入りをめざしてきた日本は、国際連盟の脱退で突然「仲間外れ」にされてしまいました。三つ目は、第一次大戦後に革命思想が西洋から流入し、労働者に権利意識が芽生えたことで、当時の政治家や資本家は危機感を高めていました。

このような出来事が絡み合う中で、指導者層は日本独自の精神的な柱の必要性を感じていました。その中から形づくられた政治的潮流が「国体明徴運動」です。万世一系の天皇を中心とする日本の国体は世界に類を見ないもので、堂々と誇れるものである。だから西洋との関係は壊れてもよい。このような天皇を中心とする国体論を唯一のよりどころにして、現状を肯定しようとしました。

こうした国体論は明治維新以降にもありましたが、立憲主義とのバランスを保っていたのが、天皇機関説でした。それが1935年の「天皇機関説事件」によって排斥されたことで、バランスが崩れ、国体賛美が暴走する結果となったのです。

再び自信を失った日本

2011年の福島第一原発事故は日本人の自信を喪失させるものでした。私たちはいまだにその解決策を見いだせていません。経済格差や貧困の問題も解消していません。「日本すごい」というテレビ番組や書籍などが受け入れられるのも、そうした出来事に対する反動だと捉えています。

戦前の日本は天皇制を唯一のよりどころにしましたが、現代日本では「伝統」が強調されています。日本固有の伝統をたたえるのは一見無害です。しかし、明治以降に「つくられた伝統」を強調することで、気が付いたら戦前の国家神道の価値観に取り込まれる危険性があります。それは例えば、国のために国民が犠牲になるという考え方や、教育勅語、夫婦別姓反対などに表れています。

戦前ともう一つ類似しているのは、中国や共産主義を「共通の敵」として攻撃対象としていることです。脅威をあおる際のトーンが戦前とますます似てきていると感じています。

自分の姿が見えない

自分たちの国を実際以上に美化する「大日本病」と、日本の戦争責任を認めようとしない姿勢は明らかに重なります。それは「日本会議」のように日本の伝統を強調する団体がめざしている目標から逆算すると理解できます。彼らの目標は戦前の国家神道体制を取り戻すことです。そのためには、戦前・戦中の日本が悪いことをしていては都合が悪い。だから、当時の体制を否定できないのです。

自分たちの国に誇りを持つのならば、過去の負の歴史にしっかりと向き合い、過ちを二度と繰り返さない姿勢を示した方が、他国から尊敬されるはずです。例えば、ドイツがホロコーストの歴史に向き合うのを見て、国の名誉を汚していると考える人がいるでしょうか。

ここに物事を客観的に見ることの重要性があります。自国を必要以上に美化する「大日本病」にかかると、第三者の視点に考えが及ばなくなります。それどころか自国の負の歴史を認めたくないばかりに、慰安婦問題の犯罪性を否定する書籍をアメリカの学者に送りつける運動をしたりする。それにどんな効果があるかというと、日本に対する不信感を増幅させるだけで、まったく逆効果になっています。自分たちが国の名誉を貶めているのに、それが見えていないのです。

薄れる戦前回帰への警戒感

近年の日本で「大日本病」が再発している背景には、戦争経験者とその人たちから直接体験を聞いた世代の割合が減っていることが大きいと思います。政府がどのように暴走するのか、国民をどのように従属させようとするのか、昭和後期までであれば、社会に共通の理解がありました。そうした感性がいま鈍くなっているように感じています。

例えば、伊勢志摩サミットで安倍首相は各国首脳を伊勢神宮に招きました。このことは国家神道への回帰という文脈で読み取ることができますが、日本のメディアが焦点を当てて報道することはありませんでした。むしろ海外メディアがそれらを重点的に報道しました。

つくられた伝統の嘘を暴く

「大日本病」を乗り越えるためには、美化や礼賛に対して警戒心を持ち、必要以上にブームに加担しないことが必要です。日本を美化する動きは、それが高まるほど、美しい日本を守るためには個人を犠牲にしてもよいという考え方につながります。「大日本病」の先には、個人の尊厳を尊重しない社会が待ち受けています。現在の政治情勢がこのまま続けば、間違いなくそういう方向に行き着きます。そうならないためには、事実に基づかない伝統の嘘を一つずつ暴いていかなければなりません。

さらに私たちは国とは何かということを考えなければなりません。戦中の日本は国を守るという言葉の上に、沖縄で老人や女性、子どもまで戦争に加担させました。守られる国とは何かの意味をしっかり問い詰めなければなりません。

独善的な主観から脱却を

戦後責任に向き合うためには、善悪の二元論に陥らないことが大切だと思います。例えば、アジア太平洋戦争は侵略だったのか解放だったのかと捉えるような単純な二元論では、それらの主張に合わない言説は議論の中から抜け落ちてしまいます。そうではなく、戦後70年以上が経過した現代だからこそ、私たちの世代は冷静な視点で戦争に向き合い、日本が中国などでなぜ残虐な行為に及んでしまったのか、経過や背景も含めて理解できるはずです。

私は日本人の戦後責任の果たし方として、謝罪とは別の面に重点を置くべきだと考えています。大切なのは事実を解明することと、その事実を国民が共有することだと思います。慰安婦問題に関して「強制連行を示す文書はない」と言って終わりにしようとすれば、相手が怒るのも当然です。そうではなく、当時の全体構造を明らかにすること。その努力を重ねることが問題解決の道筋だと思います。

安倍首相は、戦後70年談話で若い世代に謝罪の負担を負わせないと述べましたが、そもそも若い世代に謝罪の責任はありません。責任があるのは政府の代表者である首相です。あの言葉は被害者意識をあおる卑怯なやり方だと思います。

歴史と向き合う際に、主観的な観点と客観的な観点の両方を持ってほしいと思います。自国中心の独善的な主観だけで物事を見ずに、客観的な視点を大切にすることが「大日本病」の再発を防ぐ方法なのです。

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