特集2016.08-09

72年目の戦後責任
過去と向き合い、未来をつくる
加害の実相に目を向けた丸木夫妻
対話を重んじる姿勢が絵を描かせた

2016/08/17
強いメッセージ性で見る人の心を捉えて離さない丸木夫妻の『原爆の図』。第15部まである作品を描かせ続けた原動力は「対話」だった。
岡村 幸宣(おかむら ゆきのり) 2001年から原爆の図丸木美術館に学芸員として勤務。丸木夫妻に関する研究、展覧会の企画などを行っている。著書に『《原爆の図》全国巡回 占領下100万人が観た!』(新宿書房)、『非核芸術案内』(岩波書店)など

加害に向けられたまなざし

原爆の惨状を描いて名高い『原爆の図』。そこに描かれているのは原爆被害の実相だけではない。丸木夫妻は、戦争の根源にある暴力の問題、加害の実相にまで、まなざしを向けている。

『原爆の図』で戦争における加害の実相が最初に描写されたのは、第13部『米兵捕虜の死』(1971年)だ。丸木夫妻はこの作品で原爆投下直後、日本人に虐殺される米兵捕虜の姿を描いた。その絵には、手を縛られたまま力なく息絶える米兵や逃げ惑うような女性の姿などが描かれている。

『原爆の図』第13部『米兵捕虜の死』

丸木夫妻はこの絵をなぜ描いたのだろうか。原爆の図丸木美術館の学芸員・岡村幸宣さんが解説する。

「1950年に第1部『幽霊』を完成させた丸木夫妻は、その年から日本国内で巡回展を開催し、原爆被害の実相を告発してきました。そんな丸木夫妻にとって転機となったのは1970~71年に実施されたアメリカ巡回展でした」

1956年から世界二十数カ国を巡回した『原爆の図』は70年からアメリカ展に臨んだ。転機はそこで訪れた。アメリカ巡回展の最中、丸木夫妻はある大学教授にこう言われたという。

「例えば中国人の画家が、南京大虐殺という絵を日本に持っていったら、あなたはどうしますか。あなた方のしていることはそれと同じことです」

この言葉は、広島での核兵器の使用を肯定する一般市民ではなく、ベトナム反戦運動に取り組む人から投げかけられた。夫妻はこの言葉にショックを受けた。岡村さんはこう話す。

「『原爆の図』は、日本国内では被害の象徴であり、そのことが多くの人に受け入れられました。しかし、国外に作品が出ると、果たしてそれだけで戦争を捉えた絵を描いたと言えるのかと、丸木夫妻は悩むようになりました」

「そのときはじめて、戦争は被害と加害の両面があり、どちらか一方だけでは戦争をみることにならないと夫妻は思い直しました。アメリカで日本国内とは別の視点と対話することで、夫妻は『米兵捕虜の死』を描いたのだと思います」

こののち、丸木夫妻は、『米兵捕虜の死』にとどまらず、アジアにおける日本の戦争責任を描き出すようになる。1972年には原爆投下後、屍になっても差別された朝鮮人を描いた第14部『からす』を、さらに夫妻は75年に大作『南京大虐殺の図』、77年に『アウシュビッツの図』を描き上げた。対話が夫妻の絵のテーマを変えていった。

第14部『からす』

対話を重んじた丸木夫妻

岡村さんは夫妻のこうした姿勢について、「丸木夫妻は純粋な思想家とは違います。夫妻の場合は、現地に行って話を聞いたり、展覧会で来場者と対話したりして、表現を深めていく。身体的な体験を重んじるところに特徴があります。だからこそ、アジアやアメリカ、ヨーロッパでの対話が、夫妻の絵のテーマを変えてきたのだと思います」と説明する。

その背景には社会的な情勢の変化もあった。日本社会がベトナム反戦運動の中からアジアにおける戦争責任を「発見」したのは60年代後半。在韓被爆者の補償問題がクローズアップされたのも同時期だ。作家の石牟礼道子氏がルポ『菊とナガサキ─被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま』を発表したのは1968年。『からす』は、このルポの描写を参考にして描かれた。このようにアメリカ巡回展などの個人的な体験と社会的な情勢に敏感に反応しながら夫妻は作品をつくりあげていった。

そもそも、『原爆の図』の誕生のきっかけにも、「対話」が大きな役割を果たしている。なぜかというと、丸木夫妻が原爆投下の当日に広島にいなかったからだ。夫の位里さんは原爆投下の3日後に俊さんは1週間後に、位里さんの実家のある広島市内に入った。だが、それでも原爆が落ちた当日のことはわからない。「だから、絵を描くためには、原爆投下時にそこにいた人たちの話を聞かないといけない。みんなの体験を絵の中に落とし込むことが『原爆の図』の出発点なんです」

夫妻の絵にはそのことが常に根っこにあると岡村さんは解説する。『南京大虐殺の図』も『アウシュビッツの図』も『沖縄戦の図』も丸木夫妻は現地に入って体験者などの話に耳を傾けた。「そこで聞いた話が自分たちの意図とは違う場合もあります。けれども、それによって自分たちの姿勢の方をつくりかえていく。それが夫妻の考え方でした」

オバマ大統領の限界

丸木夫妻は対話を重視した。このことを現代の政治に照らすとどうだろうか。

「オバマ氏でなかったら、アメリカ大統領が広島に来ることはなかったと思います。そのことは評価しています」と岡村さんは話す。しかし一方で、「死が空から降ってきたといった表現に限界も感じた」と指摘する。位里さんの母・スマさんはかつて「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」と言った。オバマ氏への批判を先取りするような言葉だ。

オバマ氏の限界はそればかりではない。岡村さんは「オバマ大統領のスピーチはよく練られたものでしたが、スピーチが長かったにもかかわらず、資料館を見る時間や被爆者と対話する時間は少なかった。自分のメッセージを発信するだけでなく、観て・聞いて・学んでほしかった」として、「対話」の要素が少なかったと指摘する。

「オバマ氏の人生はこれからも続きます。大統領の任期が終わっても責任を果たし続けてほしい」と岡村さんは期待する。

翻って日本はどうか。岡村さんは「安倍首相は対話をしない」と訴える。安倍首相は「広島原爆の日」のあいさつ文が前年の「コピペ」であると指摘されたり、平和記念式典後に開かれる「被爆者代表から要望を聞く会」で安保法制に関して批判をされても聞く耳を持たなかったりと、被爆者と対話しようという姿勢が見られない。在沖米軍基地問題に関して、沖縄と対話しようとしない姿勢も明らかだ。対話を重視し、他者の痛みを自分のこととして受け止める丸木夫妻の姿勢とは逆行していると言えよう。

その点、丸木夫妻にとって絵を描き続けることが責任を果たす方法だった。岡村さんは、「『原爆の図』を描いた画家として絵を描き、対話を続けることで責任をまっとうしようとする気持ちはあったと思います」と話す。

『原爆の図』が残した財産

「誤解を恐れずに言えば、原爆被害は『豊かな財産』を後世に残してくれました。そこで起きた悲しみや苦しみを知ることは、今を生きる私たちの人生を豊かにしてくれます。端的に言えば原爆の実相を描いた『原爆の図』を見ると、他者に優しくなれる。そういう『財産』を残してくれた。その力が次に起きる戦争を防ぎ、命を救ってきたのだと思います。『原爆の図』は、過去の歴史を学ぶというより、これからの私たちの世界をつくっていくための糧になるものだと感じるんです」

丸木夫妻の絵に込められた思いに向き合ってみてほしい。その絵との対話から私たちが未来をつくっていくために必要な何かが見えてくるはずだ。

岡村さんは「こんな時代だからこそ見るべき作品であり、知るべき画家だと強く思います」と力を込める。

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