分断社会を乗り越えろ!格差是正では分断社会を乗り越えられない
労働組合は救済型の再分配にこだわるな
労働運動のつまずき
─井手先生は、「困っている人を助けること」を「正義」として説く政治は、人びとの支持を得られない。そこには「罠」があると指摘されています。
正義は一つではありません。僕はそれを「正義の複数性」と呼んでいます。哲学者アリストテレスに従うならば、正義には「矯正的な正義」と「配分的な正義」があります。前者は、二つの極を平均に近づけ、格差を小さくする考え方。後者は、2倍がんばった人がいたら2倍の給料をもらうことは正当だとする考え方。同じ正義と言っても、格差を小さくするのか、認めるのかで、真逆の方向を向いています。
第二次世界大戦が終わって日本が貧しかった時代、多くの日本人は困った人を助けようと考えました。誰もが同じような境遇にいたからです。この時代には矯正的な正義が社会の普遍的な正義でした。
ところが、一億総中流化が進み、さらに中間層が没落するプロセスに入ると、そのような正義は通用しなくなります。人びとは社会的弱者を「お荷物扱い」し、その人たちを切り捨てることで自分たちの負担を軽くしようとします。汗をかいた者は報われるが、そうしない者は報われなくて当たり前。こういう自己責任論が強まっていきます。
日本の労働運動は、矯正的な正義が普遍的な正義として考えられた時代には当てはまったかもしれません。しかし1970年代から経済成長が鈍化し、経済のパイに限界が見え始めると矯正的な正義を掲げた労働運動は、もう一つの配分的な正義に立ち向かえなくなってきました。ここに本質的な問題があるはずです。矯正的な正義を普遍的な正義だと捉えてしまったところに日本の労働運動の大きなつまずきがあったように思います。
─時代が変化したということですね。
正義といっても、利害関係から切り離されていません。貧しい人が多い時代には、貧しい人への分配が正義と言われる。利害関係者が多いからです。ですが、中間層が没落する時代には、それは不正義とみなされる。「自己責任を果たせない人のために私たちがなぜ負担しないといけないのか」と。中間層が利害関係の当事者ではないと感じるからです。
経済のパイが縮小する中では、個別利害は対立に走ります。高度成長が続き、分配のパイが増え続ける限りは、利益を総花的に分配できました。けれども、それができなくなった途端、分配を巡る内ゲバが始まります。これは個別利害の仕組みの限界です。
僕の見るところ、日本の労働組合は、こうした状況に陥っている。すべての働く人のために連合が存在すると言いつつも、実態は企業別や産業別の個別利害の集積になっている。もう、そろそろこの構造を乗り越え、普遍的利益のための闘争を始めていかないといけません。つまり、本来の意味ですべての労働者のための利益を追求しないといけないということです。
私は神津会長に申し上げました(『月刊連合』2016年11月号)。「クラシノソコアゲ」と言いながら、連合はなぜ貧困対策を採ろうとするのかと。こうも言いました。連合は格差是正の旗を降ろしてくださいと。考えてみてください。連合が低所得対策や貧困対策をやって、それを喜ぶ組合員はどれほどいるのですか。それで本当に組織率は上がりますか。
まず、それらの施策は、組合員の利益にならないといけません。かつ、それが組合員だけではなく、すべての労働者のためにならないといけません。そうすれば、そこに貧困層も含まれるわけです。それをしないで、なぜ分断線を引くのですか。成長し分配する前提が崩れる中で、労働組合は次の一手を考えるしかありません。個別利害の集積ではなく、組合の枠を超えた普遍的利益のための闘争をはじめなければいけないのです。
共通の利益はどこに?
─何が「すべての働く人のための利益」になるでしょうか。
今までだったら賃金ですよね。もちろんそれも大切です。しかし、ゼロ成長が続く中で、どこまで賃上げをできますか。
私たちはなぜ所得を増やそうとするのでしょうか。教育や医療、住宅、老後の備えなどのサービスを受けるためですよね。でも、財政によってそれらのサービスが提供されたらどうですか。収入を増やすことは難しいけれど、生活にかかる費用を抑えることはできます。
要するに大切なのは、暮らしが安定することです。なぜ皆さんは、所得を増やすことばかり考え、費用を抑えるという発想を持たないのですか。皆さんは当初所得を増やそうとしますが、費用を抑えれば可処分所得は増えるわけです。
費用を抑えるためには、企業にも応分の負担を求めないといけません。負担は、企業と労働者が同じように分かち合います。「あいつらからとってきて、こっちに渡す」のではなく、「私たちも出すからあなたたちも出してくれ」。こういうことです。つまり、すべての働く人が安心して働ける社会は、みんなのために税が使われ、みんなで税を払う仕組みを整えることなのです。
さまざまな社会的な費用を抑えるために労使が応分の負担をする戦略の方が、賃上げのために企業とケンカする方法より理にかなっています。この戦略は、何がメリットなのかというと、過剰な貯蓄が発生しないことです。税を払うことで個人は、個人の口座ではなく社会に貯蓄することになります。税としてサービス料を払っておくことで、実際にそれを利用するときは使用料を払わなくて済む。さまざまなサービスが財政によって提供されるので、手元に残ったお金は使い切れる。それにより、消費も伸びるわけです。欧州の経済が伸びる理由はここにあります。
90年代後半から30~50代男性の自殺者数が急増しました。勤労世代が貯蓄して将来の安心を勝ち取るモデルが破綻したからです。このようなモデルは変えなければいけません。
近世以来の大転換
─「分かち合い」の具体例はありますか。
日本中で起きています。その象徴は、子どもの医療費無償化です。子どもの命という共通の利益のために人びとが協力する現象が起きています。
私の友人である中島康晴さんは、「地域の絆」というNPO法人で、お年寄りが地域で最期を迎えられるようにする活動をしています。彼は介護施設を地域に開放していく。その過程で徘徊する高齢者への対策として、地域を一件一件回って、説得し、垣根を乗り越えてきました。
富山には「あしたねの森」という施設があります。ここは、高齢者と保育・学童の子どもたちが一緒に利用する施設で、障がいのある子どもたちも利用しています。利用者は世代や障がいの有無を乗り越えて交流します。
このように、垣根を乗り越えて分かち合う事例は各地で起きています。過疎地域では、江戸時代以来の対立を乗り越えて、集落同士が協力する事例も起きています。日本の集落は、年貢の村請制度の相互監視の下で、団結してきました。そこにおいて困った人の救済は、善意ではなく、連帯責任を免れるための強制的なものであり、救済される人は道徳的な失敗者として批判されました。だから、近世日本には救済を嫌うという価値観があった。加えて、水の利用権を巡る血みどろの争いから、他人のために税を払うのは嫌だという感覚も生まれました。
こうした近世以来の対立を乗り越えて、高知県の大豊町では水道を共有化したし、スーパーやガソリンスタンドを共有化する自治体も出てきました。見る人が見れば、これは社会主義です。さらに近世以来の大転換です。要するに、人間は困ったときに家族のように支え合おうとします。こういうことが地方で起きているわけです。これは重要な気付きだと思います。
分断の最大の理由は、相手のことを知らないということです。知ることが一番大切なのです。
─こうした動きは広まるでしょうか。
マイクロなレベルで、分断を乗り越える努力が生まれています。重要なのは、この努力をどこまで普遍的なレベルまで広げていけるかです。
トランプ現象も英国の「ブレグジット」も、背景にあるのは「中の下」の反乱です。この層の動向が、社会の針路を変えています。私は、中・高所得者ではなく、中・低所得者の連帯するモデルをつくりたい。「中の下」層が低所得層と連帯するモデルです。
いま「中の下」層は、歯を食いしばってがんばっています。だから、「貧困女子高生バッシング」のように、テレビが「貧困家庭」を取り上げると、自分たちの方が苦しいのにと言ってバッシングしてしまう。こうした状況を転換しなければいけません。税によるサービスをみんなが受益し、みんなが応分の負担をするようにすること。私はこれを「満たし・応じる」モデルと呼んでいます。貧困対策は、「奪う・助ける」モデルなのです。
貧困対策では、貧困者の人数は限定されます。おわかりですね。利害関係者が少なくなってしまうのです。これでは多くの人が共感しません。救済型の再分配にいつまでも固執してはいけません。そこを突破できるのは、すべての働く人のために行動できる労働組合なのです。
普遍的な利益の追求を
─労働組合に期待することは?
未来に対して、あるべき理想は常に持っていてほしいと思います。単に組合員だけではなく、すべての働く人、さらにはすべての人たちのあるべき姿を思い描いてほしい。そこにある共通性を考えてほしいと思います。
労働問題であれば、正規雇用と非正規雇用の共通する部分は何かを考えて、普遍化させてください。企業内の同一労働同一賃金にとどまらず、もっと広い意味での同一価値労働同一賃金も構想してほしい。個別利害にとらわれず、普遍的な価値を訴えてほしいと思います。
過疎地域が対立を乗り越えて分かち合いを始めたのは、抗いがたい危機が訪れたからです。皆さんはそうした荒波の来る前に、それを想定した行動を取ってもらいたい。「中の下」と「下」の境界線が歴史を変えていきます。弱者がさらなる弱者を追い立てる構図を見落としてはいけません。それぞれをつなぐ「共通のニーズ」を探らなければならないのです。