IT業界の実態をもっと知ろう長時間労働はなぜ生じるか
業務量を巡るITエンジニアの交渉力を探る
一橋大学大学院社会学研究科
長時間労働とエンジニアの交渉力
情報サービス産業では、裁量労働制の導入にともなう労働の長時間化や、長時間「残業」の問題が深刻である。労働時間の問題が、労働者の心身の健康に大きな影響を与えることは言うまでもなく、その改善の糸口がどこにあるのかを探ることは、喫緊の課題である。
この課題に向き合うとき、筆者は、実際の業務遂行、とりわけ業務量を巡る交渉力に目を向ける必要があると考える。それは、特集「情報通信業はなぜ長時間「残業」が発生するのか」でも指摘したように、長時間残業が発生する背景には、業務量の多さやノルマが関係しているからである。これから見ていくように、個々のITエンジニアは、仕事の進め方については決定することができても、業務の量やその期限を自分で決めることは難しい場合が多い。そして、この業務量に対する決定権を有しているか否かが、労働時間の長短と結び付いているのである。
従って、本稿では、ITエンジニアがどんな場合に自身の業務量を調整することができ、また、どのようにそのための交渉を行っているのかを明らかにしていく(情報労連の加盟組合にご協力いただき、19名のITエンジニアを対象に、インタビュー調査を実施した)。
主に、(1)現場のリーダー層は、部下であるチームメンバーに対してどのように指示を出しているのか、(2)その中で個々のエンジニアには、業務量や仕事の進め方等について、どれほど決定権が与えられているのか、そしてこれと関連して、(3)過大な要求があった場合に、それにどのように対応しているのか、といった点について聞き取りを行った。
指示の出し方
調査結果からは、まず、リーダーからチームメンバーへの指示の出し方は、詳細な指示を与えるというよりは、スケジュールや求める成果などの大枠を提示するようなものとなっていることがわかった。ある程度の経験を積んだメンバーには、「設計書を見て、『書いてある通りに作って』と言う」「基本的には、大枠を伝えて、本人に考えてもらって、成果物を一緒にレビューする」といったように、個々人に考える余地を与えている。
また、こうした指示の出し方は、詳細な指示を出すことができないほどスケジュールに余裕がないという場合や、リーダー自身の負担軽減、また作業の効率化のために採られている。さらに、「10人のエンジニアがいれば、10通りのプログラムができ上がる」との声も多く、詳細な指示を与えること自体の難しさも指摘された。
ITエンジニアの有する決定権
前記のような指示の出し方を踏まえた上で、個々のITエンジニアには、仕事の遂行方法や業務量等にどの程度の決定権限があるのだろうか。
まず、若手の場合、コードの書き方や業務をこなす順序については、自身で決定し、上司に確認を取る場合が多い。そこから経験を積み、リーダー職に就くと、自身が受け持つチーム内で調整できる事項については、さらに上の上司に事前に確認を取らなくとも、決定を下しているという。
具体的には、「レビューの際に、『このやり方ではダメだったから、次はこういう風にやり方を変えよう』とか」「ある人の仕事がまわっていなかったら、別の人に振り替える判断をすることもある」「リーダー間で、細かなスケジュールの調整はする」といったように、仕事の進め方やチーム内での業務の割り振り、またチーム間のスケジュール調整については、現場リーダーに決定権がある。
一方、リーダーであっても、協力会社のエンジニアの増員を決定したり、全体のスケジュールをずらしたりすることはできない。これらは、取引先とすでに契約を結んでいるために、変更によって費用が発生するものとなる。そのため、リーダーたちは、増員や納期に関わる問題が発生した場合には、上司にリクエストを出している。ただし、このリクエストが必ずしも通るわけではないため、その場合には残業でカバーすることになる。
交渉方法とスキル
以上からは、現場のリーダー層も含めて個々のエンジニアには、業務量やスケジュールなど、「大枠」を変更する権限は付与されていないことが明らかとなった。それでも、上司からの指示をそのまま受け入れるのではなく、必要に応じて変更を求める交渉を行っている事例も確認された。最後に、その条件や課題について分析していく。
インタビューでは、作業量から見積もって、「5日かかるような業務を、3日でこなすように」といった過大な要求があった場合、どのように対応しているのかを聞き取った。まず挙げられるのは、具体的な作業量や時間を提示して、スケジュール調整の交渉を行うというものである。「それを作るには、この作業とこの作業が必要になり、これくらいの時間がかかるけど、それでもやりますか?」といった具合だ。
さらに、3日で終わる範囲内に要求の内容を抑え込むよう、交渉を行っている事例もあり、この点は重要であろう。例えば、「3日だとフェーズ1まで、それ以降は順次進めていくというように、納品のレベルを段階的なものにする」「3日以内にその作業を優先させるのであれば、別の作業を後回しにしてもいいか交渉する」といったものであり、より現実的な対案を示している。ここで、こうした交渉が可能となるのは、そのシステムの開発に長年携わっているなど、経験を積んでいる場合である。ここから、その業務に関する高いスキルを有していれば、より高い次元で交渉を行うことに結び付き得ることがわかる。
ただし、多くは「それでもやれ」と指示されれば、やらざるを得ないと認識しており、命令そのものを拒否することはやはり難しい。そのため、上記のようなスキルを習得することに加え、業務量や労働時間そのものに限定をかけていくことも同時に検討しなければならない。聞き取りの中では、「その業務を引き受けると、36協定に引っ掛かる」と、労働時間の延長を拒否しているものもあった。労働時間規制の存在が、業務量を巡る交渉に有利に働いているということがわかる。
また、業務量については、取引先との契約の段階で、追加の作業が発生した場合の取り決めを行っておくことが重要になってくる。必要な期間・費用を確保した上でなければ、誰がその追加分を負担するのかを巡る問題が発生してしまうからである。以上は一例であるが、労働時間の上限規制と合わせて、業務量を調整するさまざまな方法が実践され、その有効性を模索していくことが、これから求められているだろう。