特集2021.08-09

国内外の情勢から
平和を見つめ直す
自由や民主主義、人権から考える
「表現の不自由」で萎縮する社会
対話のフィールドを広げる努力を

2021/08/16
表現の自由を脅かすような出来事が日本社会のあちこちで起きている。「表現の不自由」は、社会にどのような影響を及ぼすのか。津田大介さんに聞いた。
津田 大介 ジャーナリスト/メディア・アクティビスト/
「あいちトリエンナーレ2019」芸術監督

「表現の不自由展」で起きたこと

あまりにもいろいろなことが起きすぎて、簡単に振り返るのは難しいのですが、「表現の不自由展」は、各地で公開中止に追い込まれた作品を集め、展示するという企画展でした。そのため、展示会を開催できるかどうかがまず課題でした。

抗議が来ることは当初から予想できました。「あいちトリエンナーレ」が開かれる愛知県とは、企画段階からコミュニケーションを繰り返し、こういう条件なら開催できるということで、実現にこぎつけました。そのこと自体、一つの成果だったと思います。

しかし、開幕前日のレセプションと内覧会がメディアで取り上げられ、その内容がツイッターを通じてあおられると、開幕初日から事務局は大変な状況になりました。事務局には、暴力的な抗議や脅迫まがいの電話が殺到し、事務局機能が破壊される状況になりました。さらには、作品を撤去しなければガソリン携行缶を持っていくという内容の脅迫文がFAXで届き、展示を中止せざるを得ない状況に追い込まれました。

「表現の不自由展」を企画したのは、特定の表現が公共の場で展示しづらくなっている状況に対して問題提起したいという考えからでした。どのような表現が避けられているのか。その内容を自分の目で見て判断してほしいという思いがありました。

しかし、結果的にあのような形で抗議が殺到すると、展示を自分の目で見て判断するようなこともできず、議論する機会すら奪われてしまいます。実際、抗議をしてきた人の多くが、作品を見ていませんでした。インターネット上の誤った情報にあおられて批判が殺到するような状況になってしまいました。

国会は2001年、文化芸術に関する活動を行う人たちの自主的な活動を促進するとうたった「文化芸術基本法」を全会一致で成立させ、2017年にはわざわざこれを改正して前文に「表現の自由の重要性」を追記しました。このように、表現の自由を尊重する法律を制定しておきながら、一部の政治家は、特定の表現に対して攻撃を加えることにお墨付きを与えていました。抗議が加速した背景には、それをあおる政治家の存在もありました。

その点、「あいちトリエンナーレ」実行委員会の会長である大村愛知県知事は、安全上の懸念はあるものの、表現の自由への介入は憲法違反であり、政治家としてしてはいけないという姿勢を最後まで貫いてくれました。

萎縮する公共機関とメディア

「あいちトリエンナーレ」から2年がたちましたが、特定の表現を巡る状況は厳しくなっています。

今年7月に名古屋市で行われた「表現の不自由展・その後」にも、会場あてに爆竹のようなものが入った郵便物が届き破裂し、名古屋市は安全確保を理由に施設を臨時休館しました。

「表現の不自由展かんさい」でも、大阪府が「安全確保」を理由に、府の施設の利用承認を取り消しました。これに対しては、最高裁が7月16日、施設の利用を認めなかった大阪府側の特別抗告を退ける決定を出し、施設の利用を認める判断を確定させました。

「表現の不自由展」をはじめ、公的機関が「安全」を理由にして施設の貸し出しを拒むケースが相次いでいます。しかし、安全確保のための努力をせずに展示を中止するようなことを繰り返していけば、「脅迫したもの勝ち」になってしまいます。公共とは何のためにあるのかが問われています。

表現の自由を抑圧しようとする際、最も効率的な方法は、検閲の対象となる基準をあいまいにしておき、人々を相互に監視させ、権力に忖度させるようなシステムをつくることです。戦前の治安維持法もそうでした。

現在でも特定の表現に関して言えば、それ自体が論争になってしまい、ありていにいえば、ネットから総攻撃を受けて、議論すらできなかったり、メディアが萎縮したりすることがすでに起きています。実際、テレビ局のプロデューサーも「ネットでたたかれたくないからなるべくそういうことは取り上げない」ということを平気で言います。

インターネットは、マイノリティーの声を社会に広く伝えたり、クラウドファンディングのように資金を集めたりするのに大きな力を発揮する一方、巨大な抑圧にもなり得ます。表現の自由は情報発信ツールによって形を変えています。現在の情報通信環境に合わせて表現の自由を捉え直していく必要があります。

表現の不自由が招くこと

「あいちトリエンナーレ」の問題は、芸術表現のあり方に矮小化されたきらいがありましたが、社会全体の表現の自由にかかわるという視点が不可欠だと思います。「あいちトリエンナーレ」で起きたことは、芸術の世界で起きた小さな出来事ではなく、社会のその他の出来事ともつながっています。

例えば、日本学術会議の会員任命拒否問題もそうです。多くの学会が反対声明を出しましたが、戦前の表現の自由の問題になぞらえて声明を出した学会も少なくありません。現在の状況が戦前と同じとは思いませんが、それにつながるような状況があることは認識しておく必要があると思います。

ジャーナリズムへの介入も露骨になっています。日本の報道の自由度ランキングは、2010年の11位から2021年には67位まで後退しました。

行政が「公益性の観点」から映画への助成金の不交付を決定したケースもあります。日本学術会議の騒動を見れば、次は科研費への圧力が強まることは疑いようがありません。

歴史を振り返っても、権力の側には、芸術・文化・学術分野に介入したいという欲望が常にあるものです。自民党の長期政権が続いたことで、その欲望を隠さなくなってきたということではないでしょうか。

香港もそうですが、権力が抑圧を強める際はまず、表現の自由から攻撃されていきます。日本も香港のようにすぐになるとはいいませんが、特定の表現が抑圧されている事例は増えています。そのことに意識的にならなければ、気が付けば、後戻りできなくなっているということは起こり得ます。

労働組合にとっても表現の自由は大切です。組合員が集まって集会を開いたり、デモをしたりするのも表現の自由です。かつて、2008年に日教組がホテルを会場に集会を開こうとした際、右翼団体による街宣行動を背景にホテルが使用契約を解除し、予定していた集会を開けなかったことがありました。皆さんの運動とも無関係ではありません。

対話の場を広げるために

多様な表現が許されるのが成熟した社会です。意見が違う人であっても、意見と人格を切り分けて議論できることが重要です。そうした議論や対話のできるフィールドは年々狭まってきています。

そういった場をどうやって広げていくのか。フェイクニュースやヘイトスピーチへの対応もそうですが、インターネット上の言論空間を構築するプラットフォームに関連する情報通信企業の社会的責任はますます大きくなっています。情報通信企業は、表現の自由を支えるインフラをつくっています。その産業で働く情報労連の皆さんには、自ら従事する産業と表現の自由のかかわりについて関心を持ってほしいと思います。

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