特集2016.04

一人ひとりを大切にする社会へ自己責任論を乗り越え普遍的な支援のさらなる拡充を

2016/04/20
生活保護世帯が過去最高を記録している。首相が「一億総活躍」を訴える一方で、足元では生活の基盤が揺らいでいる。インフラとしての社会保障を普遍的なかたちで拡充していくべきだ。
大西 連 認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事長

日本の相対的貧困率は16.1%(2012年)ですから、6人に1人が貧困状態です。1980年代から比べるとかなり上昇しています。

相対的貧困のラインとは、等価可処分所得が122万円以下の水準のことを指します。これは、1カ月に使えるお金が約10万円というレベルです。その水準で暮らす人たちが、およそ2000万人もいる計算です。

街を歩いて、それだけの人が貧困状態にあると思えますか。家がなく、食べるものがまったくないという絶対的貧困は困窮状態がまだ見えやすいのですが、働きながら何とか生活できる状態の貧困は、外からは見えづらいものです。

私たちの元にも、実家で家族と暮らしているからとか、友達と家賃をシェアしているから暮らしていけるという人がたくさん相談に訪れます。東京都の最低賃金は907円。フルタイムで働いたとしても、社会保険料を差し引いたら手取り12万円程度しか残りません。そこから家賃や光熱費などを払ったらどうでしょう。実態は貧困ラインに近い厳しい生活です。ですが、仕事をして何とか生きていけると本人も貧困状態を認識しづらい。こうして相対的貧困は見えづらいものになってしまいます。

「困難さの比べ合い」

相対的貧困は、その見えづらさゆえに、自己責任とされる風潮が強くあります。例えば、非正規雇用労働者が労働者全体の4割を超えたことは社会問題と認識されても、40代派遣社員・男性が困窮していると聞くと、なぜ正社員にならなかったのかとか、貯金しなかったのかのように、個人の努力の問題にされてしまう。

さらに、「困難さの比べ合い」のような状態があって、「本当に困っている人」だけを支援するべきだとする論調もあります。しかし、困っているか、困っていないかの線引きには感情的な議論が起こりがちで、とりわけ生活保護をめぐる議論にはそうした傾向が強く表れます。

その議論でよく用いられる生活保護の不正受給は、受給者全体のわずか0.6%に過ぎません。その一方で、15~24歳の若年層の貧困率は19%になり、高齢者の貧困率と変わらないような水準になっています。そうすると、若者たちは将来、貯金もできず、年金も少ない金額しか受給できません。それは、30~40年後に「社会保障の爆発」という形で日本社会に跳ね返ってきます。見えない形で進行している貧困を放置すればどうなるのか、私たちは自己責任だけで片付けるわけにはいきません。

安倍政権の貧困対策

貧困問題に関する安倍政権の政策は矛盾しています。金融緩和で物価を上昇させる一方で、2013年8月から生活保護費を段階的に引き下げています。景気回復をめざすという目標に反対する人はいませんが、その一方で弱い立場の人への給付を削減するのは言語道断です。

しかも、その基準は、世帯人数が多いほど給付が削減される計算方法になっています。つまり、子どもがいる世帯ほど給付が減るのです。この生活保護費の切り下げは、2013年5月に子どもの貧困対策基本法が全会一致で成立したわずか3カ月後から実施されています。大企業を優先する一方で、弱い立場の人たちにしわ寄せを押しやるやり方は、大きな矛盾があると言わざるを得ず、まったく評価できません。

景気回復を訴える一方で、分配が軽視されています。弱い立場の人にも富を行き渡らせることこそが本来の景気回復だと言えます。

財源というマジックワード

貧困対策を含む社会保障を議論する際に財源の問題は当然出てきます。ただ、それが消費税という一つの税目の枠組みだけ語られがちなことに懸念を抱いています。財源を消費税だけに限定すると大きな落とし穴があって、その他の財源から社会保障費が出てこなくなります。私たちの暮らしを支える社会保障は、所得税や法人税などを含む、もっと大きな税制の枠組みで考えるべきです。

大切なのは、どこまでを個人が担い、どこまでを公共的なものが担うのかを丁寧に議論することです。大学授業料を見るとわかりやすいですが、40年前の国立大学の授業料は年間3万6000円にすぎませんでした。それが今では53万円超にまで値上がりしています。国立大学の授業料が安かったのは、社会が高等教育を支えるというコンセンサスがあったからです。

安倍首相は過去に子ども手当に関して、「子育てを家族から奪い去り、国家や社会が行う子育ての国家化、社会化だ。これは実際にポルポトやスターリンが行おうとしたことだ」と発言しましたが、このように個人と公共的なものとが担う境界線が丁寧に議論されているとは言えません。

そうすると社会保障はおのずと財源の枠組みの中で優先順位の高い、効率の高そうなものしか対策がとられなくなります。しかしそれでは対症療法を続けるだけで問題の解消にはつながりません。今の状況は、増改築して迷路になった家の一部屋を模様替えして、問題をやり過ごそうとしているに過ぎません。社会の役割とは何かという観点から政策を組み立てていくべきです。

「財源」という言葉はマジックワード。実際は、やると決まればどこからか1兆5000億円もの税金を拠出すると政府は約束できるのです(軽減税率の財源)。問題は議論の仕方で、「保育園落ちたの私だ」のブログも、匿名ではなく、個人が明らかになっていれば、前述したように自己責任論のバッシングが吹き荒れていたかもしれません。けれどもそれは議論ではありません。私たちは議論ではなくて、批判のし合いに慣れてしまったのではないでしょうか。

困っている人を支援する難しさ

本当に困っている人を支援するというのは、一見正しいように見えますが、難しさをはらんでいます。困っているかどうかの線引きにより、人々の間に分断が起きるからです。そうであれば、困っているか、いないかにかかわらず、すべての人が対象になる普遍的な支援を増やしていくべきです。年金や医療保険を受けて恥ずかしいと思う人はいませんよね。

例えば、駅にエレベーターをつけようとしたときに、かつては「そんなものいらない」「ムダ」という意見も多かったようです。それがいまでは、障がいがある人でも、ない人でもエレベーターを利用します。みんながその利益を享受しています。このようにできるだけ選別性を薄めた普遍的な公共サービスをどれだけ増やしていけるかが、これからより重要になると思います。個人や家族の問題とされていることを、どれだけ社会の問題と考えられるかが重要ではないでしょうか。

時代が変化する中で労働組合のあり方も丁寧に検証しなければなりません。非正規雇用労働者の割合が4割を超す中で労働組合は、その人たちの声を届けるために、運動のあり方や代表者の選び方を見直さなくてはならないでしょう。難しい課題だと思いますが、私は労働組合に期待しています。

特集 2016.04一人ひとりを大切にする社会へ
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