分断を乗り越えるために
沖縄の声を封じない民意を本土側につくりたい
大きな読み違い
県民大会翌日の在京メディアの報道に、沖縄とのすさまじいギャップを感じています。朝日新聞はかろうじて1面トップ扱いでしたが、NHKは翌朝にはラインアップの一番下。読売新聞は社会面のベタ記事でした。
在京メディアは女性の遺体発見後は事件を大々的に報じました。しかし、それも県民大会まで続きませんでした。私は事件発覚後に依頼された記事で「何か起きたときだけ騒ぐのはやめにしよう」と書くつもりでした。けれども「何か起きたとき」ですら、瞬間風速的に収束してしまう。とても驚愕しています。
NHKは「県民大会」ではなく「抗議集会」と表記しました。1995年の県民大会のように超党派ではなかったことが判断要素なのでしょう。しかし、それは大きな読み違いです。沖縄の民意は、県議会が海兵隊撤退を決議し、知事もそのことに言及するなど、明らかにこれまでとは別の段階に突入しています。在京メディアはこれに反応していません。温度差という言葉では表せないほどの深い分断が生じています。
政治家や在京メディアが、知事や沖縄地元紙を批判するようになりました。知事や地元紙を批判するのは、そこに反映される沖縄の民意を見たくないからでしょう。現実を直視せず、見たいものだけを見ようとする姿勢に幼児性を感じざるを得ません。
1995年の県民大会から20年間で沖縄社会も変わりました。ですが、それ以上に日本社会の沖縄に対する態度の方が大きく変わったのではないでしょうか。かつての政治家は懐柔の下心があったとしても、贖罪の心をもって沖縄に接していました。それが特に小泉政権以降は官僚やメディアも含めて態度が変化しました。沖縄と政府との紐帯は危機的な状態です。そのことが端的に表れたのが、安倍政権による「主権回復の日式典」でした。
ゲート前の行動が「エンジン」
沖縄に対する強硬姿勢を支えているのは中国脅威論です。安倍政権は中国の脅威をあおることで在沖米軍基地の必要性を訴えています。その一方、日本の安全保障に本来必要な偶発的な衝突を避けるため防衛当局間が直接やりとりする「海空連絡メカニズム」の構築はなおざりにされています。そもそも沖縄の地元紙が何度も報じてきたように、米国が検討してきた海兵隊撤退を何度も引き留めてきたのは日本政府です。日本政府は沖縄の声を米国に伝えるどころか、封じ込めてきました。
日本政府は今後もこのように主体的に問題を解決しない可能性があります。ですが、自分たちの社会の問題を自分たちで解決できないということは日本社会にとって、とても恥ずかしいことではないですか。
沖縄はこれまでの選挙で、これ以上ないほどの民意を示しています。今度は本土が民意を示す番です。沖縄の民意を後押しできなくても、せめて民意を封じない世論を東京でつくりたいと考えています。
辺野古新基地建設阻止の活動を続けている作家の目取真俊さんは、基地建設を止めるのは、在沖米軍基地の本土引き取り論ではなく、キャンプ・シュワブのゲート前の座り込みやカヌー隊などの具体的な行動だと訴えています。私も同じ考えです。
これを自動車に例えると、キャンプ・シュワブのゲート前での活動は「エンジン」で、それを支える沖縄の民意は「タイヤ」。本土の民意は「ボディー」です。いまは、重いボディーがエンジンやタイヤの動きを押さえつけています。このボディーを少しでも軽くしてエンジンやタイヤの動きをスムーズにしたいと考えています。
そのためにも本土の人たちに伝わる言葉で発信する必要があります。強すぎる言葉は興味を失わせてしまうかもしれないし、逆に強い言葉で意識を向けさせる必要があるかもしれません。難しい問題です。本土側でこの問題にかかわる人をもっとたくさん引っ張り込み、新しい視点を切り開く工夫が必要だと感じています。
沖縄が国防の上で本当に大切だというのならば、沖縄との関係はなおさら良好でなければなりません。これは政治の「左右」を問いません。「左」の人たちだけで議論して解決できる問題でもありません。解決へ向けた議論をかみ合わせることはできるはずです。これ以上問題を放置してはいけません。それこそ日本社会の恥ではないでしょうか。