「土人発言」と日本社会に潜む差別意識
トイレの落書き
私は「沖縄問題」という言葉があまり好きではありません。この言葉は、問題の所在が沖縄にあるようなイメージを与えるからです。しかし、実は日本社会全体の問題です。このことをまず皆さんと共有したい。
私は週刊誌の記者を務めた後、フリーランスになって外国人労働者問題を取材してきました。その過程で私の目に飛び込んできたのは、ヘイトスピーチです。そしてヘイトスピーチを取材する過程で、沖縄に対する差別に行き当たりました。
2016年10月22日に大阪府門真市の公衆トイレで差別的な落書きが発見されました。そこには「大阪府公認 ニューワード 土人」と書かれていた。他にも在日コリアンや中国人を差別する言葉が並べられ、全体を括弧でくくって「ポア」、つまり抹殺すると書かれていた。沖縄の高江で機動隊員が「土人発言」をしたのは10月18日。トイレの落書きは、この事件を背景に書かれたのは間違いないでしょう。
気になるのは、「大阪府公認」という言葉です。大阪府の松井知事は「土人発言」後の19日夜に、ツイッターで「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と発信。その翌日には記者会見で「混乱を引き起こしているのはどっちなのか」と発言し、「相手もむちゃくちゃいっている」と言った。要するに「どっちもどっち」という意味です。
さらに20日には、参院法務委員会の質疑で法務大臣が、発言は非常に残念であるとする一方、「発言が差別的意識に基づくものかどうかは、その発言の詳細を承知しておりませんので、お答えしかねる」と発言し、差別と断定しませんでした。トイレの落書きの背景にはこうした社会全体の沖縄に対する差別的な見方があると言っていいでしょう。
差別の記憶
「土人発言」をした20代の機動隊員の真意は定かではありません。ただし、一つ確実に言えるのは、彼はその言葉を東京都民には言わなかっただろうということです。沖縄に対してだから言ったのです。
沖縄にはこのような差別的な言葉を投げ付けられた記憶があります。例えば、1960年代、北部の高江地区におけるベトナムでの戦闘を想定した訓練に、高江の住民が駆り出され、住民は米軍から「土人」呼ばわりされていました。
その同じ場所で20代の機動隊員が「土人発言」をした。彼はこういう歴史を知らなくても、無意識のうちに差別の視線がどこかで刷り込まれていた。差別は連綿と引き継がれていたわけです。
在日コリアンに対する差別も同じです。在日コリアンに対する差別は、最近メディアが取り上げるようになっただけで連綿と引き継がれてきました。在日コリアンの人たちはヘイトスピーチを新しい現象ではないと口を揃えて言います。関東大震災のときには多くの朝鮮人が虐殺され、今も学校でいじめられている在日コリアンの子どもがいます。差別のまなざしが引き継がれる回路が日本社会の中にあるのです。
沖縄が大好き?
「土人発言」にまつわる話はもう一つあります。1903年に大阪で開かれた博覧会における「人類館事件」です。「人類館」の主催者が「7種の土人」を展示した。その中に琉球人が含まれていました。この事件は沖縄に深い傷を残しました。
このような記憶がある中で「土人」という言葉が使われたことは、歴史的な文脈からいって許されるものではありません。にもかかわらず、大阪府警を管理する大阪府公安委員会を所轄する大阪府知事が発言を擁護し、沖縄担当大臣が差別とは言えないとする発言をし、国家がその答弁書を閣議決定したわけです。しかし、これが差別でなければ何なのか。2016年6月に施行されたヘイトスピーチ対策法に逸脱する行為を、政府が率先してとってしまっているわけです。
「土人発言」があった後、私は沖縄から東京のテレビ番組に電話出演しました。私が「土人発言」は十分差別に当たると発言したところ、東京のスタジオから意外な反応が返ってきました。「それは違うんじゃないですかね」と言うのです。本土は沖縄を差別していない。なぜなら、本土の人は沖縄の海や食べ物やミュージシャンが大好きだから。これのどこに偏見があるのですか、と。
あ然としました。私たちはキムチや焼き肉を食べ、韓国ドラマも見ますが、在日コリアンに対するヘイトスピーチは社会に確実に存在します。沖縄が大好きだからといって、沖縄に対する差別がないという理屈はどうして成り立つのですか。ただ、これは東京のスタジオの人たちが特殊な人たちではないという気もします。そういう見方が社会に浸透しているのです。
沖縄へのヘイトスピーチ
私は2016年に『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』という本を書きました。本を書いた理由は、沖縄に対する偏向が日本社会に浸透していると思ったからです。
きっかけの一つは、2015年6月に自民党の文化芸術懇話会に呼ばれた作家の百田尚樹氏が「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」と発言したこと。これに自民党議員が同調したことです。
もう一つは普天間基地に関するデマです。普天間基地周辺に住民が後から勝手に住み着いたというデマを百田氏などが発言したことです。このような差別的な見方は挙げればきりがありません。
また、もう一つ本を書くきっかけになった出来事があります。2013年に沖縄県内の首長らが東京・銀座でオスプレイ配備反対のデモ行進をしたときのことです。日の丸を手にした集団が、「反日」「売国奴」「非国民」などのプラカードを掲げて、デモ隊に罵声を浴びせました。私はその現場にいましたが、心底腹が立った。奴らは、沖縄県民を同等の日本人として見ていないのです。
デモ隊の先頭にいたのは、当時那覇市長だった翁長・現沖縄県知事。彼はこの後、辺野古新基地建設反対の姿勢を明確にしていきます。デモ隊への罵声は、翁長氏が態度を明確化する理由の一つです。ただ、理由はそれだけではありませんでした。翁長氏は、デモ隊がこれだけ罵声を浴びせられているのに、何事もないかのようにしている東京の人びとに腹を立てていた。そのことが許せなかったのです。
差別に向き合え
差別とは、不平等で不均衡で非対称の関係から生まれます。沖縄は、その位置に置かれている。どんなに声を上げても、多数派の声に 押されて、我慢を押し付けられるのです。圧倒的な力関係を背景にした差別に、「どっちもどっち」は通用しません。
沖縄の在日米軍基地問題を難しく考える必要はありません。非常にシンプルな問題です。沖縄に基地が多すぎませんか。これだけです。沖縄は琉球処分で武力を持って日本に組み込まれ、太平洋戦争では最大の激戦地となり、およそ10万人もの住民が殺害され、戦後も米軍統治下に置かれ、日本復帰後も基地を押し付けられている。ずっと差別されているのです。こんな理不尽な話がありますか。
このような状態が許されるのも、日本社会のどこかに沖縄を差別する気持ちがあるからではありませんか。沖縄に基地を押し付けても平気だと思っている。「土人」とか「非国民」とか言われても社会はそれを許してしまっている。沖縄に対する差別は、連綿と再生産されています。このことは、さまざまな差別の問題と実は地続きになっているのです。私たちは、この問題を日本社会全体の問題として捉えて議論しなければなりません。
(本稿は2016年11月24日に開催された情報労連勉強会の内容を編集部が構成したものです)