人々の感情をあおる「ポスト・トゥルース」
左派は理性に基づいて「感情」を用いる工夫を
熟議とポスト・トゥルース
2000年代に入って「熟議民主主義」という言葉が流行した。人々がデータに基づいて冷静な議論を重ねれば、理性的な合意に至ることができるとする考え方だ。民主党政権でも盛んに提唱された。
しかし、人は必ずしも理性的に物事を判断するわけではない。熟議民主主義は、その意味では、日常生活での情念の要素を、よくも悪くも排除したものだった。
「ポスト・トゥルース」は、人々が事実として正しいことより、個人がそう思いたい、あるいは事実を受け入れられないとする感情を優先する状態のことだ。こうした事態が世界的に現れてきたのも、熟議的なものによって捨象されていた情念や非理性的な感情が噴き出てきたからだろう。
なぜ感情を優先するのか
人々が事実より感情を優先するのはなぜか。一つには、合理的・理性的に判断するという近代の人間像が揺らいでいるという大きな問題がある。もう一つには、人々が合理的な判断をできないようにする力が働いていると考えることができる。
例えば、人は、過度な緊張感を与えられ続けると判断が鈍るようになる。長時間労働や借金があまりにも積み重なると合理的な判断が難しくなったり、ブラック企業で虐待を受けると正常な判断が難しくなったりするのも同様だ。
ブッシュ政権以降、世界ではテロの脅威が何度も強調されているが、このように人々の不安の感情をあおり、危険ではないものまで危険だと思わせることを国際政治学では「安全保障化」と呼ぶ。日本では、安倍政権が繰り返し安全保障環境の悪化を強調しているが、これも「安全保障化」の一つだと言ってよい。
例えば、自衛隊機のスクランブル発進が今年度1000回を超え、過去最多になったというニュースがあった。この回数をもって安全保障環境が悪化しているという見方もある。しかし、スクランブル発進とは、領空侵犯があった時に行われるものではなく、自衛隊がその恐れがあると判断した場合に行われるものだ。スクランブル発進の増加は、中国の動きの活発化が理由と国内では報道されているが、CNNなど海外のニュースを見ると、過敏かつ危険な監視活動をしているのは自衛隊の側であるとする報道もある。安全保障に関する偏った情報が人々に対して過剰な不安をもたらしてはいないか、注意しなければならない。
他者を尊重する
また、外からやってくる移民やイスラム教徒が自分たちの生活を圧迫しているという感情があおられることもある。しかし、そうした感情は、本来結び付かない情報を結び付けてつくられることが多い。例えば、イスラム教徒の排斥を訴える欧州の極右政治家は「ムスリムが嫌いなのではなく、テロリストを排除するのだ」と述べ、「テロを起こしたのはすべてイスラム教徒」などのような間違った情報を流す。しかし、実際にテロを起こすのは、外から入ってきたイスラム教徒ではなく、その国で育った自国民である場合が多い。犯人が極右排外主義の思想を持っていることもしばしばだ。人々は自らの不安から、本来無関係な事象を結び付けて誤った判断をしてしまうのだ。
では、「ポスト・トゥルース」の根本にある人々の不安の感情を払しょくしていくためにはどうすればいいだろうか。
一つには、人々が、自らの権利を理解し、かけがえのない存在だと気付くための教育が重要になる。なぜなら、自分を大切にできない感情がゆがむと、他者への抑圧へと容易に転じていくからだ。
例えば、ブラック企業に入社してしまっても、声を上げることができるよう、中間団体が労働者教育を行うこと。自分の人権が侵害されていることに気付くこと。このように自分を大切だと思う感情を取り戻すと、他者も大切にされるべきという感情が自然と芽生えるはずだ。こうした教育は、初等教育段階だけではなく、職場における労働組合による教育、市民社会による生涯教育でも十分に行える。回りくどく思えるかもしれないが、このような経路をたどることで、人々は他者と対話し、冷静に議論する場を取り戻すことにつながるだろう。
情報を読み解く力
そしてもう一つは、情報が開示されること。そのデータに基づいて人々が判断できる状態を取り戻すことが大切だ。「国境のない記者団」による報道の自由度ランキングで日本は、安倍政権下でランキングを下げ続けている。また、今年に入ってアメリカ国務省が日本のマスメディアの状況に対して異例の懸念を示した。われわれは、政府にとって都合の良い情報ばかりが垂れ流されないように、絶えず情報開示を請求し、それをチェックしていかなければならない。
その場合には、市民が国や地方自治体の行動を監視できる時間が必要になる。そのためにも長時間労働を即刻是正し、人々が政治にコミットできる時間を確保することが重要だ。
市民が正しい情報を得て吟味することができなければ、民主主義は壊れてしまう。その一番の悪例は、戦前の大本営発表だろう。戦前は、「軍部にだまされた」で済んだかもしれないが、戦後は国民主権であり、その責任は国民が負う。「だまされた論」はもう通用しない。政府の情報をうのみせずに、報道を読み解く力や、デマや陰謀論に巻き込まれない力も求められるようになっている。
理性に基づいて感情を用いる
人々の感情をあおる政府に対して、私たちはどのように対抗していくべきだろうか。その場合も、理性か感情かの二分法ではなく、理性に基づいて感情を動員すればいい。データに基づく理性的な発言を、共感などの感情の持つ効果を使って、より効果的に訴えるべきだろう。
例えば、法廷のような冷静さを求められる場を「熟議の部屋」と私は呼んでいるが、そうではない場所では、感情や情念の持つ力はやはり圧倒的に強い。人々に何かを訴えるのにこの力を無視することはできない。この力を用いる工夫が必要だ。しかし、事実に基づかない情報で人々の感情をあおるのではない。確かなデータに基づいた上で、感情的に訴える。ウェブサイトの作り方、プラカードのデザインをよりビジュアル的なものにするのでもいい。人々の感情により訴えるような手法を用いるべきだろう。
そのためには、訴える側が正しいデータを持っていなければならない。労働組合は確かなデータに基づきながら、人々の感情に訴える方法で「ポスト・トゥルース」の時代に対抗していってほしい。