日本人として向き合う在沖米軍基地問題強い者に統合され、弱いものをたたく
米軍基地がもたらす沈黙と暴力とは
専攻は教育学、生活指導の観点から、主に非行少年少女の問題を研究。現在は沖縄で未成年の少女たちの調査・支援に携わる。共著に『若者と貧困』(明石書店)、単著に『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)
沈黙すると踏んでいる
「日本で性犯罪が報告される率は低く、自分は捕まらないと思っていた」
沖縄県うるま市の女性が2016年4月に殺害された事件で、殺人や強姦致死などの罪で起訴された元海兵隊員は弁護人にこのように述べていると今年2月、朝日新聞が報じた。
「絶対にばれないと思っているから、こんな事件が起きる。彼らは沖縄の人たちがこの狭い社会で性犯罪が起きても言わないと思っている。沈黙するって踏んでいる」
米兵・米軍属による事件・事故が後を絶たない現状をどのように思うかを聞いた時、上間さんはこう答えた。そして声を絞り出すように言った。「許せない」
上間さんは今年1月、沖縄の貧困と暴力、そこから逃げて自分の居場所をつくりあげていく女性の物語を描いた『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』を出版した。この中で6人の女性が家族や恋人からの暴力、レイプの実態などを語った。
上間さんは、その暴力の背景に、米軍の存在があるのではないかと推測している。米軍の存在は、沖縄で暴力を引き起こし、女性をはじめ人々に沈黙を強いているのではないかということだ。上間さんはこう言う。「今回のデータとして直接それが言えるわけではないので、本に書くことはしませんでした。でも、男性が暴力的になるのには、一足飛びには言えないけれど、軍隊がこれだけ近くにいることが関連しているんじゃないかとも思います」
基地と暴力
基地と暴力の近さについて上間さんはこんな話をしてくれた。
上間さんの支援を受ける女性が、とある出来事で米軍属の人にけがを負わせてしまった。彼女に対して暴力をふるっていた恋人の男性はこのとき、彼女に向けてこう言い放った。「外人さんがかわいそうだろ」。これを聞いて、上間さんは衝撃を受けた。
「私は彼女が憔悴しきって死ぬんじゃないかと心配していたのに、恋人である男性は彼女の身体よりも、軍人の身体の方が近いのかと心底びっくりして。私はこれかと思ったんですけどね。沖縄で暴力性みたいなものが許されているというのは」
つまり、その男性がしたことは、恋人という最大の親密圏にいる人よりも、力の強い米軍との関係を優先したということだ。そのことを上間さんは、「いわゆる『底辺層』の子たちは、強い文化に統合されている感覚を持っている」と話す。弱い者が強い者に従属し、さらに弱いものをたたくという構造だ。
例えば、辺野古や高江に行くとダンプカーに乗った若者が、反対運動をする人たちをにやにや笑いながら、軽蔑する感じで眺めていることがあるという。強い者に統合された沖縄の若者が、それに抵抗する沖縄の人たちを軽蔑する。「すごくグロテスクな光景」だと上間さんは話す。
一方、強い者に統合された若者たちも沈黙を強いられているのかもしれない。沖縄では最近、反対運動をする人たちに対する「ヘイトスピーチ」が横行するようになった。
「沖縄の若者のヘイトスピーチを聞いたんですね。でも、『オラオラ―』とかしか言っていないんですよ。何といったらいいんだろう。『言語がないんだな』って思ったんですよね」
上間さんは彼らのことを「舌足らずで、しゃべりきれない」と表現した。だから、彼らは正義の話をすることができない。どこについていくとかっこいいかとか、安泰とか、そういうことが行為の中心になってしまう。語れないという沈黙がそこにある。
こうした行動の背景にもまた、暴力があるのかもしれない。沖縄の建築業界で働く若者の中には、会社で暴力を受けている人たちもいる。中卒で、中学校の先輩にリクルートされて就職するような地元の建築会社で、若手社員がリンチを受けているのだという。
そうした若者たちが集まる米軍基地近くのタトゥースタジオがある。そこには10代の海兵隊員たちもやってきて、タトゥーを入れる。日米の若者たちは、社会や基地の中にある暴力から逃れるために「男らしさ」を身にまとおうとする。
「そこでは、男とか、強いこととかに至高の価値が置かれていて、暴力的な行為をしても見逃されるという感覚が共有されている」と上間さんは話す。暴力から逃れるために強くなろうとする一方で、それは再び暴力に回帰する危険を帯びている。軍隊の暴力性が基地の外とつながる空間がそこにある。
沖縄と日本社会そして家族
上間さんが調査を通じて支援してきた女性たちのほとんどは、家庭内に暴力をふるう父親がいた。
「家族がいいものだという言説はとても強いんですよね。でも、虐待を受けてきた子にとってそれは、孤立を深めるものでしかない。沈黙を強いられてきたことの一つの表れだと思うんです」
家族と暴力。その関係性は、沖縄と日本社会にも言える。上間さんは、日本社会における沖縄の立ち位置を「女性ポジション」だと表現する。観光や音楽などで「男性ポジション」にある日本社会を癒やしているうちはいいが、過重な基地負担に対して拒否反応を示した途端に「虐待」されるという意味だ。
今年4月8日、自民党沖縄県連の照屋会長が「国は親であり、県は子どもだ。子どもが一方的に親、国を批判して対決している」と県連大会で発言した。この例えを聞いて上間さんは、「実際には親が子どもを殴っているのに」と反論した。「親」が「子ども」を虐待し、沈黙を強いる姿は、上間さんが見てきた家庭内暴力の構図と同じだ。
「暴力が発動して、それが許される際のメタファーってなんでこんなに似るんでしょうね」。上間さんはつぶやいた。
上間さんの著書に登場する、恋人に暴力をふるっていた男性は、幼少期に父親から暴力を受けていた。だが、彼は母親より父親の方が好きなのだと上間さんに話し、力の強かった父親が、年老いて衰えていく姿をかわいそうだとかばった。
「結局、彼はお父さんこそ自分の気持ちをわかってくれていると思うわけですね。暴力はこうやって温存されているんだなって思うんです」
上間さんは、彼が暴力に回帰してしまう要因を、自分の痛みを語る力を身に付けていないからだと分析する。沈黙を強いられ、自分の痛みを語ることのできないまま大人になったことで暴力に回帰してしまうのだ。
痛みを語ること
上間さんは、著書『裸足で逃げる』に登場する女性たちを「沈黙の人」と述べた。彼女たちは暴力や貧困の下で狭い選択肢の中に追い込まれ、自分の欲望を口にすることができなかった。そんな彼女たちが長い時間を要して、自分の人生を語り始めた。上間さんはそこに一筋の希望を見いだした。彼女たちの体験を伝えることで何かを変えようとした。
「病を治すためには自分が何に苦しんでいるのかを口にできるって大事だと思います。自分の人生を語れないときって、話す側の本人も自分の人生がぷつぷつと途切れて、何が起きているかわからない。でも、自分のことを語れるようになると、このときに暴力があったとか、このときはきつかったとか、それを乗り越えて今があるとか話せるようになる」
沈黙を強いる力に対して、自分の言葉を語ること。それは暴力から抜け出すきっかけになる。
しかし、実際の教育現場に目を向けると、子どもたちの声を拾いきれていない現状がある。上間さんは、学力テストの順位向上が第一目標である画一的な教育内容が子どもたちにむしろ沈黙を強いていると指摘する。上間さんは「語る力こそ必要なのに」と訴える。
上間さんは今も深刻な暴力の被害に遭っている女性たちの相談を受け続けている。インタビュー中、時折、怒りと悲しみで声を震わせた。相次ぐ暴力に沖縄の人たちは身を切り裂かれるような思いをしている。その思いは日本社会で共有されているだろうか。
沖縄は不条理のシステムの中にある。だが、多くの人は、自分の生活に一生懸命になって、システムの不条理に気付かない。声を上げた人をたたくような現実すらある。
「不寛容の広がりってそうなんですよね。自分たちは我慢しているというのがベースにある。だからしゃべり始めた人をたたいてしまう」
基地は依然として存在している。沈黙を強いる力はむしろ強まっている。それでも、多くの人が自分の痛みを語り始めることに希望はあるのかもしれない。