日本人として向き合う在沖米軍基地問題憲法と民主主義の観点から考える沖縄の在日米軍基地問題
日本国憲法と地方自治
2000年に施行された地方分権一括法は、国と自治体の関係を「上下」から「対等」へ転換することをめざしました。しかし、それでもやはり日本の統治機構は、基本的に中央集権型であり、比較的高度な自治権を州に認めている連邦制とは異なり、国と自治体がぶつかった場合に、自治体の立場が弱くなってしまう現状があります。
もっとも、連邦制の国であっても、州が外交防衛の分野で独自性を出すのは困難ですが、いずれにせよ、日本では、人口の少ない沖縄県が、こうした統治機構の中で、自分たちの意思を国政に直接反映させることは、仕組みの上では難しいと言えます。
日本国憲法の地方自治という章は、戦後に生まれました。この章の第95条は、一つの地方公共団体のみに適用される法律について住民投票で過半数の同意を得なければならないことを定めています。特別法が適用されているわけではないので、この第95条の条文を直接適用することはできませんが、沖縄という一地域に過重な基地負担が集中している現状を踏まえて、辺野古新基地建設に関して第95条の趣旨を生かして住民投票を行うべきという考え方があります。沖縄県民の意思を示すという点において有効だと思います。
民主主義とマイノリティー
マイノリティーの権利は、民主主義の過程では救済されにくいという問題があります。例えば、日本国民に占める沖縄県民の割合は今後も大きく変わることはありません。これでは沖縄県民はいつまでも少数者のままです。
こうした状況を補うために立憲主義という考え方があります。立憲民主主義は、民主主義をベースとしながらも、多数決であっても奪ってはいけない個人の権利があるという考え方に立っています。この考え方の下、日本国憲法は、国民一人ひとりの基本的人権を保障しています。
ただし、日本国憲法は「沖縄県民」というような、集団の権利を保障するという考え方を採っていません。他国では、例えばカナダやオーストラリアは、イヌイットやアボリジニといったエスニックグループの権利を憲法や法律で一定程度保障しています。
このような規定を日本国憲法に反映させる方法として、国会議員に民族枠や地域枠を設けるという議論が学者の間で行われることがあります。ですが、日本国憲法下の国会議員は、地域の代表ではなく、国民の代表という位置付けなので難しい問題に直面します。
このため、沖縄県民という集団よりも、そこに住む人たち個人の基本的人権が侵害されていると訴える方が法理論的には筋が良いと言えます。憲法の視点で言えば、▼第13条の幸福追求権とそこに含まれる人格権▼「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」という前文に記された平和的生存権▼沖縄に基地が集中する観点では第14条の法の下の平等─これらの観点から個人の基本的人権が侵害されていると訴えるという方法が検討できます。
表現の自由
加えて、基地建設反対運動に対する政府の対応を見ると、「表現の自由」という観点からも懸念される点が多々あります。デモ・座り込み等の抗議行動は、憲法第21条が保障する表現の自由の範囲に含まれます。反対派のリーダーである山城博治さんの逮捕・長期勾留に関しては、それ自体が大いに問題であると同時に、これが他の人々の表現行動に対する萎縮を招く恐れが高いと言えます。表現の自由は「壊れやすい」からこそ、憲法が保障する他の人権と比べても、憲法学の通説・判例においても優越的地位が認められています。
私たちは日本国憲法の下、同じ日本国民としてこの国に暮らしています。しかし、そうであるにもかかわらず、沖縄の人々は事実上、差別的な扱いを受けています。こうした問題に対して、同じ国民としてどのように向き合うのか。そのことが問われていると思います。