政治に変化を
政治に対する見方を変える答えない政府と伝えないマスコミ?
メディアの政治報道をどう読み解くか
問題はどこに?
今年3月、メディアと政治の関係を『政治と報道 報道不信の根源』という本にまとめました。主に取り上げたのは、朝日新聞や毎日新聞、NHKの政治報道です。政局メインの報道や、政府の不誠実な答弁を報じないメディアのあり方に問題意識を持ち、指摘しました。
問題意識の一つに、ニュース(特にNHKのストレートニュース)が政府の見解を伝えるだけになってしまっていることがあります。例えば、首相がファイザー社にワクチンの追加供給を要請したことを伝えるニュース。NHKは、「菅首相“9月までに必要なワクチン追加供給受けるめど立った”」という見出しで伝えました。しかし、これは首相がそうした認識を示しただけで、実際にめどがたったわけでありません。翌日の国会審議で、石橋みちひろ参議院議員が田村厚生労働大臣に確認したところ、9月までに追加供給を受ける確約はないと答弁しました。結果的に、追加供給が行われることになったとしても、報道の時点では、首相が要請したことまでにとどめておくべきでした。メディアと政権側との距離感に問題意識を持ちました。
また、国会質疑のやりとりを示さない報道のあり方にも問題を感じています。例えば、福島第一原発の処理水の海洋放出の問題。NHKニュースでは、質問した議員の名前も出さずに、菅首相の答弁だけをつなぎ合わせて報じました。これでは、見解の対立があってもそれが可視化されません。地元の人たちが海洋放出に反対していて、政府がその不安に応えていないことを知ることができれば、「こんなに強引に進めていいのだろうか」という問題意識を持てるはずです。でも、政府の答弁を伝えるだけでは、そうなりません。現状では「そう決まったのか」という印象が残るだけです。見ている人が問題意識を持てるような報道の仕方を工夫してほしいと思います。
「答えない政府」というニュース価値
問題意識が一つでも立てば、他の問題でも同じような見方ができるようになります。例えば、辺野古の新基地建設や五輪の強行もそうでしょう。現状では座り込みや反対運動する人たちは、「頑固」で「特殊」な人たちに見えてしまうかもしれないけれど、実際に人々の声に頑迷に耳を傾けないのは、権力を持つ側だということがわかってきます。
「野党が反発」という言葉から多くの人が受ける印象は、「揚げ足を取っている」「反対ばかり」というイメージでしょう。右派系のメディアが、そうした表現をあえて用いることはあるかもしれませんが、リベラルなメディアもそうした表現を用います。例えば、「野党の質問は決定打を欠いた」という表現。これではたとえ野党の質問が的を射ていて、政府が答弁をはぐらかしたとしても、問題が伝わりません。
メディアが政府の不誠実な答弁を報道しない背景には、政府が明言したことしか報じない、あるいは、ごまかしたり、あいまいにしたりしたことは報じる価値がないという捉え方があるのではないでしょうか。しかし、政府が「答えない」「論点をずらして答える」──こうしたこと自体がすでに議会や有権者に対する冒とくであり、報じる価値は十分にあるはずです。にもかかわらず、ニュースの中では、「かわした」とか「安全運転」とかの表現で、あたかも問題がなかったかのように報じられてしまう。「あきれた答弁」とは表現しないまでも、政府が説明責任を果たしていないこと自体にニュース価値を見いだし、報じてほしいと思います。
実際、菅首相の答弁を聞くと、聞かれたことにまともに答えていません。例えば、五輪を開催するのか、しないのかを立憲民主党の山井和則議員が質問しても、「開催するに当たっては」「安心・安全」という答弁を繰り返し、まともに答えない。私は、菅首相のこうした答弁を、黒やぎが届いた手紙を食べてしまう童謡「やぎさんゆうびん」になぞらえて、「やぎさん答弁」と呼んでいます。
メディアが、政府の答えない姿勢を繰り返し報じることで、初めて世論の問題意識が立ち上がります。問題意識が立ち上がり、その壁をどう突破するかを考える人が増えてこそ、今の政治状況を変えることができます。メディアは、質問に答えず、説明責任を果たしていない政府の姿勢そのものを問題にしてほしいと思います。そのためにも、壁を突破しようと声を上げている人たちがいることを報じることが一つの方法になるはずです。
新聞・テレビの限界
報道を見る側の私たちに何ができるでしょうか。一つには、一次情報にあたることが挙げられます。
首相の記者会見のもようは、首相官邸のホームページで公開されています。国会質疑のもようも衆議院・参議院のインターネット審議中継で閲覧できます。例えば、その内容とニュースを照らし合わせてみると、ニュースがどう編集されているかがわかります。質問に答えていない様子や言いよどんでいる様子などは、映像を見て初めてわかることもあります。すべての一次情報にあたることは時間的に無理ですが、注目場面だけでもやってみると、メディアが政府答弁をどうつないでいるのかや、補っているのかもわかります。
新聞やテレビの報道には限界があり、見えてこない部分もあると知ることが必要です。ただ、それは既存のマスメディアを見なくてもいいというのとは違います。新聞やテレビの報道に限界があることを知りつつ、足りない部分は自分たちで補うことも必要だということです。
問題意識が一度立てば、ニュースを見た後に、それ以外の情報を探すこともできます。政党や議員のホームページやSNS、労働組合や弁護団などの声明などを探してもいいでしょう。最近では政党や議員のYouTubeチャンネルも増えています。労働組合としても、組織内議員の質問の様子を動画で解説するなど、幅広いチャンネルを使って情報発信するといいのではないでしょうか。
「どっちもどっち」を離れて
内田樹さんが『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002年)で指摘するように、私たちのものの見方や考え方は、自らが属する社会集団や周囲の環境によって変わります。自分の意見の大半は、他人の意見によって構成されているといって差し支えありません。
そうした中、メディアが「どっちもどっち」という姿勢で報道を続ければ、それは社会にも影響します。意見が分かれるテーマについて、双方の主張を見て、その間を取ろうと考える人は少なくありません。しかし、間を取るだけでは、マイノリティー側が不利になります。そうではなく、互いの主張の根拠はどこにあるのか、よりまっとうなのはどちらなのか、一歩踏み込んで判断してほしいと思います。
自分に関係のないニュースのように思えても、問題を見過ごせば、自分に影響することがあります。例えば、入管施設における外国人収容者への対応もそうです。人権侵害を見過ごせば、それはその他の人権侵害を許す社会にもつながります。自分に引き付けて考えられるかが重要だと思います。