「安い日本」をどうするか
社会全体の賃上げを考えよう
「海外出張から戻ってきた瞬間、“日本は何でも安いな”と思うよね」
バンダイ時代の元上司とコロナ前に会食した際に、こんな話を聞いた。つい先日も、長期間の隔離期間を経てLAから来日した大学時代の友人と会食した際に「向こうでは、夜の外食は100ドル以上が当たり前」と言われた。日本は、安い。
「いいもの安く」は消費者視点で言うと、うれしいことのように聞こえる。一方、労働者視点ではどうだろう。「安い」連鎖が起こっていないか。安い商品、サービスは中小企業、非正規雇用労働者、外国人労働者、フリーランスなどの安い労働力で成り立っていないか。そして、低賃金の労働者が、安くていいものを買い求める。結局、疲弊する。
しかし、ファストファッションに身を包み、ファストフードを食べ、スマートフォンを片手に持っていると、貧しいことがバレない。「賃金が上がるのは当たり前」という感覚が、もはやない。
変化の動きはある。いまや、AIやDXを担う人材は争奪戦だ。日本の大企業においても、これらの人材を別枠で採用し、新卒でも事実上、年収1000万円以上支払う企業が現れている。1990年代から年俸制の導入や、賃金の上昇幅や賞与に評価を反映させる動きも進んできた。社内持株会など、将来の資産になり得る取り組みもある。実際、古巣のある会社では今期、11カ月分の賞与が支給されたし、私が辞めてから株価は12倍になった。しかし、これらのリターンは誰もが受け取るわけではない。しかも、よくよく考えると必ずしも賃金とはイコールではない。成果型の取り組みは、従業員の努力や成果を評価しているようで、実は企業にとってはリスクがない。問題は私たちの賃金なのだ。
賃金をいかに上げるか。これは労働者が長きにわたり声を上げ続けていた問題のはずだ。政府からも賃上げが呼び掛けられてきた。確かに、最低賃金はじわじわ上がっている。ただ、十分か。現実として気付けば日本は賃金まで安い国になってしまった。しかも、賃上げを要求すること自体が、コスト増や結果としての人員削減、採用抑制につながるのではないかという言説が跋扈し、「言ってはいけない」空気が醸成されていないか。
この賃上げも立場によって意味はまったく異なる。正規と非正規の格差、業界間の格差なども論点だ。利益率の高い業界の正社員に限定すると、まったく見え方が変わる。とはいえ、その業界においても、欧米のプラットフォーマーと比較すると、また見え方は変わる。そもそも、もうかるビジネスを創造できているかという問題である。
さて、春闘がやってくる。躊躇なく賃上げを要求したい。そして、自社や業界だけでなく、社会全体の賃上げを考えたい。ここで意識したいのは、一生活者としての地道な努力である。高いものを買えというわけではない。とはいえ、その価格は適性か、安いものを買うことで、社会は果たしてよくなるのか、立ち止まって考えたい。賃上げは自分たちのためであり、社会のためなのだ。