自信を持てないのはなぜか
自信について考える
「自信を持て、自信がないから君の仕事には迫力も粘りもそして厚みすらない」
「電通鬼十則」には、このような言葉がある。電通過労自死事件では「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは」という一文が問題視され、この十則は社員手帳への掲載が取りやめとなったのだが、この「自信」に関する言葉も十分に強烈である。
もっとも、迫力、粘り、厚みがある仕事をしている人は、自信がある人なのだろうか。一生懸命働き、仕事で成果を出していようとも、自信を持てない人はいる。
思えば、会社員時代に一緒に仕事をしていたカリスマ営業たちは、一見すると自信がみなぎっていそうで、実はそうではない人だらけだった。こわもてで知られた営業部長から、自分がいかに小心者であるかを聞かされたときには、驚いた。受注に至らないのが不安でしょうがないため、ひたすら商談の数を増やし、結果として高い成果を上げた。人前では自信満々風に振る舞っているが、実は自信などないのだ。見え方と実態は大きく異なる。
「市場価値」なるものが、人を不安にさせる。日本の大企業で、実績を積み重ねていても、自分が社外で通用するのか、しょせん、JTC(ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニー)でしか活躍できないのではないかと悩む。
立ち止まって考えると、自信とは「夢」同様、魔物ではないか。別に何も問題なく生活している人も、仕事で成果を上げている人も、「自信がない」と自分で自分を傷つけてしまう。自信とは「自分を信じる」と書くが、自分を信じられないから自信が持てない。自分を侵害しているという意味で、自信とは「自侵」ではないかとすら思ってしまう。
いっそのこと、自信という脅迫から逃れてみてはどうか。つまり、自信がない自分を直視し、受け入れる。誰もが自信などないものだと考えると気が楽になる。
自信とは自ら「つける」ものなのか、周りの人が「つけさせる」ものなのか。私の経験では、自分で自分の自信をつけるよりも、人に自信をつけさせる方が得意だ。企業の人材採用・育成担当者として、大学教員として、もう15年以上にわたり「自信がない」という若者に向き合い続けてきた。人に自信をつけるためには、本人の話をひたすら受け止め、承認し、具体的に褒めることである。大きな成功を収めていなくても、小さな挑戦、一歩を褒める。さらには、自信を持つことができるような、今までの自分を少しでいいので超えるような適切な難易度の課題に取り組んでもらい、そのプロセスと結果を褒めることだ。
これは自ら自信をつけるためにも応用可能だ。立ち止まって自分の取り組みについて褒める点がないかを振り返ってみる。他者との対話を通じて、自分やその取り組みについて承認、評価してもらうことも一歩となるだろう。
なんせ、自信をつけるためには褒めの連鎖が必要だ。ダメ出しではなくポジ出しを。ポジティブな空気を会社と社会に生み出そう。