特集2024.04

歴史と運動から学ぶ
労働組合はなぜ必要なのか
「ニューディール政策」と労働組合
アメリカで労働組合が必要とされた理由とは?

2024/04/10
1930年代のアメリカは、労働組合を促進する政策を採用し、経済の安定を図ろうとした。当時の為政者はなぜそうした政策をとることにしたのだろうか。そこには、集団的民主主義という考え方がある。
山崎 憲 明治大学准教授

金融資本主義の暴走と労働組合

1920年代のアメリカでは金融資本主義の嵐が吹き荒れていました。当時の資本家たちは、社会を良くするための経済活動ではなく、お金を増やすためだけのマネーゲームに明け暮れていました。社会では格差が拡大し、恐慌の発生によって政情不安が高まり、為政者は革命の不安におびえていました。

そのため、当時のアメリカの大きなテーマは、金融資本主義の暴走をどう止めるかでした。そのキーワードの一つが、経済学者のJ・R・コモンズが唱えた「コレクティブ・デモクラシー(集団的民主主義)」でした。

この集団的民主主義の考え方は、今でいう選挙で投票するだけの民主主義ではありません。それは、次のような考え方でした。

私たちは誰しも、家族や地域、職場などといった何かしらの集団や組織に属しています。そうした集団や組織は、それぞれ長い間に形成された慣習の上に成り立っています。集団や組織は、それぞれの慣習に基づいた利害を有しています。そうした利害が日々、調整されることで社会は成り立っています。集団的民主主義とは、社会を成り立たせているこのような集団の利害調整であるといえます。

1930年代のアメリカは、集団的民主主義によって金融資本主義の暴走に歯止めをかけようとしました。つまり、金融資本家に偏ってしまった社会の力関係を調整するために、それに対抗する組織を支援しました。それが労働組合でした。

労働組合は、労働者の集まりです。当時のアメリカは多くの人が雇用されて働くようになる「雇用社会」が形成されていました。そこに市民=労働者という関係が生まれ、労働組合が市民の声の代弁者、利害調整の主体としての役割を期待されることで、政府は労働組合を集団的民主主義の担い手として位置付けたのです。

このように、1930年代のアメリカのニューディール政策は、政府と企業、労働組合という三つの組織によって利害調整を行うことで、金融資本主義の暴走に歯止めをかけようとしました。すなわち、アメリカにとって労働組合は、集団的民主主義に欠かせない存在になったのです。

日本の労働組合の位置付け

では、他国の状況はどうだったでしょうか。金融資本主義の暴走の影響は、ヨーロッパや日本にも広がっていました。

ドイツやイタリアは、アメリカとは対照的に、独裁国家という国家権力によって金融資本主義の暴走を抑え込もうとしました。それがナチズムやファシズムでした。

同じことは日本にもいえます。労使関係の研究者であるブルース・E・カウフマンは、2006年に書いた論考で次のように指摘しています。

カウフマンは、戦前の日本は、科学的管理と社会政策によって社会の統合を実現しようとしていたと指摘しました。科学的管理とは、経営者主導による労働者の経営参画であり、社会政策とは政府の施策による社会問題の解決です。ここで中心になるのは、経営者や政府のことであって労働組合はほとんど考慮されていません。つまり、戦前の日本では、労働組合が集団的民主主義の担い手として位置付けられることはなかったとカウフマンは指摘します。

では、戦後はどうだったでしょうか。戦後、世界の潮流は、集団的民主主義の方向へと進んでいます。ところが日本では、労働組合を社会主義政権樹立のための道具として位置付ける動きが総評を中心として強まります。つまり、日本の労働組合はここでも集団的民主主義の担い手として位置付けられてこなかったとカウフマンは指摘するのです。

しかし、社会主義政権の樹立をめざす運動は、自民党政権の強い反発を招き、結果的に労働組合つぶしから、社会党の衰退につながります。こうして総評が中心となって進められた社会主義政権の樹立という目標は失われていきます。

その後、連合が掲げた運動のビジョンが、2001年の「連合21世紀宣言」でした。このビジョンの中で連合は、地域と労働組合のつながりの強化を強調します。これは、労働組合が地域における利害調整の中心となることで、労働組合が集団的民主主義の担い手になることをめざすものであるように見えます。この段階において、日本の労働組合は、集団的民主主義の担い手としての役割を発揮する方向へ動き始めました。

集団的民主主義の担い手は誰?

集団的民主主義の担い手は、労働組合である必要はありません。労働組合以外の組織が市民の声を代弁できるのであれば、労働組合でなくてもいいのです。1930年代のアメリカで労働組合の存在に光が当てられたのは、多くの人が働くようになった雇用社会において労働組合が市民の声を代弁する機能を有していると捉えられたからでした。

しかし、現代のように多くの人が職場に集まって働かないようになったらどうでしょうか。雇用労働から請負労働への転換が進み、フリーランスが増えたらどうでしょうか。労働者という同質性が徐々に失われ、労働組合が市民の声を代弁する集団でなくなっていけば、労働組合の集団的民主主義の担い手としての存在意義は低下していきます。

労働組合が集団的民主主義の担い手であるためには、労働組合が組合員だけではなく、社会の声を反映できる組織であることが必要です。確かに、労働組合が社会の声を反映しなくても、企業内の労使関係を安定させる機能は残ります。しかし、これからも労働組合が社会において存在意義を発揮するためには、労働組合が集団的民主主義の中核になる必要があります。それこそが、これからの時代における労働組合の存在価値だと思います。

これからの役割

1930年代の労働組合は、金融資本主義の暴走を食い止めるための防波堤の役割を期待されましたが、現代ではデジタルプラットフォーム資本主義に対抗する組織としての役割が期待されています。

デジタルプラットフォーム資本主義では、労働者はむき出しの個人としてプラットフォーム市場に放り込まれ、弱い立場に置かれます。その中で、社会のバランスを調整するために中間的な組織をどのように再形成していくかが問われています。

労働組合は、人的にも、資金的にも、規模的にもその役割が大きく期待される組織です。アメリカでは、アルファベットユニオンのように産業構造の変化を踏まえた労働組合も生まれつつあります。労働組合の新しい形を時代に合わせて模索する必要があります。

日本ではこれまで、労働組合が集団的民主主義の担い手として捉えられてきませんでした。日本の労働組合がこれからの社会においても存在意義を発揮するためには、自分たちが集団的民主主義の担い手であるという意識を持つことがまず重要だと思います。

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