戦後80年
過去と現在をつなぐ元捕虜が語る日本軍の虐待行為
加害の歴史にどう向き合うか

捕虜に対する虐待行為
日本軍は、第二次世界大戦中、多くの連合軍兵士を捕虜として捕らえ、強制労働などの加虐行為を行いました。極東裁判の記録によると日本軍による連合軍捕虜の数は、13万2134人で、このうち3万5756人、約3割が死亡しています。
日本軍が連合軍捕虜に対して行った行為とその家族への影響は、拙著『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー 第二次大戦連合軍捕虜とその家族』(日本評論社)で詳しく説明しています。主な加虐行為は次のように分けることができます。
その一つは、強制労働です。日本軍は、捕虜に対して絶え間ない過酷な労働を課しました。日本も飢えに苦しむ中、十分な食料を与えず労働させたため、「リビング・スケルトン」といわれるようにやせ細る捕虜が続出しました。代表的な例は、ビルマとタイを結ぶ泰緬鉄道の建設です。その建設工事には、白人捕虜約6万人、アジア人労務者約20万人が駆り出され、多くの死者や病死者が出ました。
二つ目は、長距離移動の強制です。日本軍は、長い戦いで疲弊した捕虜に対し、炎天下にかかわらず徒歩による長距離の移動を強いました。衰弱したり、病気で倒れる捕虜が続出したほか、隊列から遅れたり水を飲もうとして日本軍に刺殺された捕虜もいました。代表的な例は、「バターン死の行進」です。この事件では7万人近い捕虜のうち1万人近くが死亡しました。また、「サンダカン死の行進」では、捕虜2000人のうち6人しか生き延びなかったとされています。
三つ目は、いじめです。日本軍は、捕虜に対して理由のないいじめを行いました。典型的な例は、日本兵が建物の両側から入ってきて、片方にお辞儀をさせる一方、片方には尻を向けたと言いがかりをつけ、暴行するという行為です。「5人組」のような集団罰も取り入れられ、自分には責任がなくても罰せられる行為が行われました。これらのいじめや処罰は、元捕虜に深い心の傷を残しました。
このほか、日本人男性の出征で必要となった労働力を補うため、捕虜を連行し、捕虜を乗せた移送船が魚雷攻撃され、多くの溺死者が出たことも強い精神的苦痛を与えました。日本軍が、制海権を奪われている海域で捕虜を無理に移動させたことが背景にあります。
元捕虜たちの訴え
私は、生き残った元捕虜たちの数多くの嘆き・怒り・憎悪を聴いてきました。
多くの元捕虜が語ったのは、食料不足や労働のつらさだけではなく、体罰や処罰など日本軍による理不尽な仕打ちでした。そのことは元捕虜たちに心に深い傷を残しました。言葉では言い表せないような地獄だったと語る人もいれば、体験談を話しながら、突然おえつを漏らし泣き出し、言葉を発せなくなる人もいました。多くの元捕虜は戦後もトラウマやPTSDに苦しみ、それは妻や娘、息子などへの八つ当たりや暴力として継承されました。
元捕虜に対して日本政府は、きちんとした賠償や謝罪をしてきませんでした。例えばイギリスの場合、日本政府は戦後、イギリスの元捕虜に賠償金を支払いましたが、レートの差もありわずかな金額でした。イギリス政府は、サンフランシスコ講和条約の際、日本に対する「追加補償請求権」を隠蔽してきました。その後、イギリス政府は、トニー・ブレア政権時に、民間抑留者と元捕虜に対して約200万円を支払いましたが、日本政府からは支払われませんでした。元捕虜や未亡人は、「これはイギリス政府が私たちの苦しみを長く無視してきたことへの補償であり、日本政府を免罪するものではない」と語っていました。元捕虜らは働いた分の賃金を求める裁判も起こしました。「もっと良い待遇をしてくれたら、もっとよく働けたのに」と不思議がる元捕虜もいました。
さらに、日本政府はちゃんとした謝罪も行えていません。1998年に橋本首相がイギリスの大衆紙「サン」に「おわび」の文章を投稿しました。「サン」紙は、いわゆる「ゴシップ紙」で、正式な「おわび文」を掲載するのにふさわしくない媒体でした。掲載を知った当事者は侮辱されたと感じ、そもそも掲載されたことを知らない元捕虜や家族もたくさんいました。これ以降、日本政府が謝罪文を発表したことはなく、元捕虜やその家族は、謝罪されていないという認識が続いています。また日本側も捕虜問題の認識が薄く何について謝るべきかがわかりません。
また、オランダでも元捕虜や民間人抑留者が日本に対して謝罪と補償を求めてきました。2000年に天皇・皇后がオランダを慰霊訪問した際、日本のメディアはこれを「美談」として報じる一方で、天皇の献花の2時間後に行われていた当事者や遺族たちによる抗議デモや、献花を覆い隠す意図を報じませんでした。
謝罪と補償を求めていたのは、「名誉の負債財団」(JES)というグループでした。この名称には、「日本が戦後に回復した名誉は、あくまで一時的に貸し出されたものであり、過去の責任を果たさない限り真の意味で名誉は回復されていない」という主張が込められています。
泰緬鉄道の建設で過酷な労働を強いられた元捕虜のジャック・カプランさんは、戦後の天皇訪英の際、日本国旗を燃やすパフォーマンスをしました。彼はその後、訪日し「日本の人々が素晴らしい人々だということはわかった」「僕は日本が好きだ」と語りました。けれどもその一方で、「僕は日本を受け入れたんだから、日本も僕の『謝罪と補償』の要請を受け入れるべきだよ」と語り、あくまで日本政府による謝罪と補償を求め続けました。
日本軍による虐待は、日本人にとっては「過去の歴史」であっても、当事者や遺族にとってはいまだに解決されていない現実の問題なのです。
加害に対する責任
日本人の集団的な戦争の記憶は、空襲被害や原爆・戦地での過酷な経験といった「被害・被災」の記憶に基づいています。そのため、捕虜の経験も「戦争の犠牲者」として捉えがちです。しかし、元捕虜たちからすれば、自分たちは「戦争の犠牲者」ではなく、「日本軍による扱いのひどさの犠牲者」です。そこでの出来事は、「戦争の悲劇」ではなく、「戦争犯罪」であり、それゆえ戦犯裁判が行われましたが十分な準備はなく元捕虜や日本の双方に不満を残しました。日本人は、戦争そのものを「天災」のように捉える傾向がありますが、それだけでは問題の本質を捉えることはできません。
このように捉えれば被害と加害を同列に扱うべきではありません。つまり、日本も空襲で民間人が被害を受けたとはいえ、それによって「被害はお互いさま」という形で戦争責任を相殺することはできません。加害に対しては、しっかりと責任を果たす必要があります。その上でこそ、被害を訴えることもできるはずです。
現代への教訓
元捕虜の経験から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。日本軍が捕虜に対して行った集団的ないじめは、現代にも残っています。戦時中、日本軍兵士は集団で捕虜に暴力をふるっておきながら、一人で戻ってきて傷の手当てをしたり、慰めの言葉をかけたりした人もいました。同調圧力に負けたのでしょうが、捕虜はその行動に大きな矛盾を感じました。加えて、集団で責任を取らせる集団罰の風潮も、社会に根強く残っています。いじめや自殺につながるような誤った集団主義を見直す必要があるでしょう。
また、日本軍が捕虜に対して過酷な労働を強いたことは、現代の労働問題にもつながっていると思います。元捕虜は「自分たちは消耗品だった」と語りました。現代日本でも労働者が「消耗品扱い」される場面は残っています。労働組合の皆さんだからこそ、元捕虜たちが語る経験から学ぶことがあるのだと思います。