特集2019.10

「共助」をもっと考えよう共助があれば公助はいらないのか
共助と公助の関係を考える

2019/10/15
助け合いの運動とともに、公的な仕組みである公助を充実させることも必要だ。両者の関係をどう捉えればいいのだろうか。
高端 正幸 埼玉大学人文社会科学研究科
准教授

「共助」強調の背景

政府は、ここ数年、地域共生社会というコンセプトを掲げ、地域の助け合い活動の強化を打ち出しています。生活の場としての地域における助け合い、支え合いを活発にしていくことは、非常に重要です。ただし、政府がこうした助け合い運動を推奨することの危うさも同時に自覚した上で、社会像を描く必要があると思います。

子ども食堂を例に考えてみましょう。子ども食堂が必要とされる背景には、子どもの貧困問題があります。子どもの貧困問題の背景には、親の貧困があり、その背景には労働やジェンダー、社会保障などの社会構造の問題があります。これらの問題の背景には、日本社会における公助の弱さがあります。

子どもの貧困問題を改善するためには、その背景にあるこうした問題に取り組む必要があります。ところが、政府が公助の責任を果たそうとせず、地域の助け合いだけで子どもの貧困問題を解消しようとしたらどうでしょう。労働や社会保障の問題が生み出す一切の矛盾が地域の善意で運営される子ども食堂に押し付けられてしまいます。こうした事態は子ども食堂の運営に取り組む人たちにとっても本望ではないはずです。

子ども食堂に限らず、共助には重要な意義があります。自己責任が強調される中で、共助の重要性を再発見する取り組みは欠かせません。しかし、財政学を専門とし、近年の社会保障の抑制傾向をよく知る者としては、政府が地域の助け合い活動を強調することには懸念を抱かざるを得ません。

共助と公助の関係

共助も公助のいずれも脆弱であるのが、日本の特徴です。共助だけを強めればよいわけではありません。地域の助け合いが公助の抑制の尻拭いをさせられてはいけません。日本の現状を踏まえれば、共助とともに公助も充実させる必要があります。

ところが、政府の姿勢はそれとは異なります。地域包括ケアの分野では、まず「自助」があり、それが難しければ地域の助け合いである「互助」で補い、それでも足りなければ社会保険制度としての「共助」を活用し、最後に生活保護などの社会福祉である「公助」が出てくるという図式があります。これが政府の基本的な考え方になっています。

ややこしいのですが、政府は2000年代から社会保険制度のことを共助と呼ぶようになりました。一方、家族や地域の助け合い、市民活動は「互助」と呼ばれます。今回は、断りがない限り、地域の助け合いや市民活動を共助と呼び、公助は公的な社会保険制度も含むこととします。

さて、共助と公助の関係を考える際に重要なのは、公助は共助を一方的に補完する存在ではないということです。公助の前に共助が先立つという考え方は一面的に過ぎます。実際には公助がしっかりしているからこそ共助が生きてくるし、共助がなくて公助だけでも社会は成り立ちません。共助と公助はすぐれて相互補完的な関係にあるのです。

再び、子ども食堂を例にとってみましょう。子ども食堂には、生活困窮や、その背景にあるさまざまな困難を抱える家庭を、課題解決のために専門家につなげる役割が期待されています。けれども、そのつなげた先の児童相談所や、生活保護制度など、公的なセーフティーネットがしっかり機能していなければ話になりません。現状を見ても、児童相談所や生活保護制度の機能不全が著しいことは言うまでもありません。財源をしっかり確保して、人材を含めた体制をしっかり充実させ、公助を機能させることが不可欠です。共助と公助が手を取り合って機能してこそ、子どもの貧困問題に立ち向かうことができます。

公助の充実も必要

共助と公助の相互補完的な機能をどう発揮させていくべきでしょうか。

公助と共助は性格が異なります。共助は、顔見知りの関係や特定の目的を共有することで成り立つ協力です。一方、公助=財政とは見知らぬ者同士の大きな単位での協力を実現するための仕組みです。そこでは強制力を持った国家が見知らぬ者同士の支え合いを実現します。

ところが、日本は「嫌税感」が強い社会です。背景にはさまざまな課題があります。とりわけ大きな理由は、社会保障制度が生活を守ってくれているという実感を得られないことでしょう。公助を充実させるためにも、この問題を乗り越えなければいけません。

そのためには、公助を自助と共助の後に来るものとして限定的に捉えるのではなく、人間的な生活が公助によって保障されていると感じられるための大胆な公助の充実が必要です。それによって、財政が私たちの共同の財布だと感じられる状況をつくっていかなければなりません。財政の仕組みの簡素化・透明化などを通じて納得感を得られやすい仕組みにすることも大事でしょう。このような取り組みを通じて、公助の存在を共助を一方的に補完するだけのものから脱却させる必要があります。

相互補完の視点で

共助の弱点の一つは、共感を得にくいところは置き去りにされてしまう可能性があることです。子どもの貧困問題には関心が集まっても、大人の貧困問題は自己責任だとして関心が高まらない風潮もその一つです。

日本は見知らぬ他者と助け合う意識が国際比較でみても弱い社会です。友人や顔見知りでなく、自分の所属する組織の人でもない他者とともに生きているという感覚が共有されていません。こうした社会において、共助に過度な期待を寄せることにはリスクがあります。共感を得られず置き去りにされる人が数多く生まれかねないからです。

その点、公助は、共感の有無にかかわらず、制度として権利を保障することができます。公助は、人間の尊厳を保障するために欠かすことができない重要なものです。この点においても、共助と公助がお互いの強みを発揮しつつ、ともに充実していくことが大切です。

このように、共助を成り立たせるためには公助が必要だし、公助を機能させるためには共助も必要です。だからこそ、公助を担う政府が共助を強調する傾向を慎重に受け止める必要があります。

共助の運動に取り組む人たちも、問題の背景にある社会構造の問題に目を向け、社会保障をはじめとした公助の充実を力強く要求してほしいと思います。共助と公助を相互補完的に機能させていくほかに、未来に希望をもたらす方法はないのです。

特集 2019.10「共助」をもっと考えよう
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