特集2022.12

物価上昇に向き合う
賃上げから日本経済を回す
雇用か賃上げかを超えて
「合成の誤謬」に陥らない
運動の展開を

2022/12/14
雇用維持を優先し、賃上げ要求を抑制する。そうした判断は個別労使では合理的だが、結果的に日本の経済を停滞させてきたのではないか。「合成の誤謬」を超えて、よりマクロに長期的な視点での運動が求められている。
首藤 若菜 立教大学教授

合成の誤謬

労使関係の視点から見ると、日本の賃金が上がらない背景には「合成の誤謬」があると思います。

どういうことかというと、経営側は低成長下での賃上げをリスクと判断し、事業継続のために賃金を抑制する一方、労働組合は雇用を守るために賃上げを我慢する。日本ではこの30年間、こうした判断が繰り返されてきました。個別労使では合理的な判断かもしれません。しかし、こうした合意が積み重なると、マクロでは賃金が上がらず、内需が停滞します。経済も成長せず、企業業績も伸びません。その結果、肝心の雇用も揺さぶられています。個別企業では、正社員の雇用を守るために非正規雇用労働者を雇い止めするようなことも行われてきました。ミクロでは合理的な判断でも、マクロでみると不合理になる。経済学では、それを「合成の誤謬」と呼びます。

労働組合にとって大切なのは、長期的なマクロの視点で雇用や賃金を考えることです。労働組合が、目先の雇用維持だけを優先し、賃上げを要求しなければ、長期的な経済成長につながらず、結果的に雇用維持や賃上げも実現できません。

ただ、これを企業別組合に求めるのは難しいのも事実です。産業別労働組合やナショナルセンターが、企業別組合が賃上げを要求できるようにするための波をつくり出さなければいけません。

例えば、最近の物価上昇に対応するため、政労使の合意による賃上げのガイドラインをつくり、賃上げの目安を示し、達成できなかった大企業に説明を求めるようなことをしてもいいはずです。労働組合、とりわけナショナルセンターが率先してそうした役割を担うべきです。

賃上げは、社会全体に自然と波及していくわけではありません。人為的な努力があって波及していくものです。かつての春闘に賃上げの波及効果があったのは、労働組合の努力があったからでした。賃上げは難しいと考えている経営者に対して、労働組合が賃上げを要求し、少し無理をしてでも賃上げをさせる。経営者は他社の賃上げを踏まえて、自社の賃金を上げる。それが賃金の相場を形成し、社会に波及してきました。現在のように業績の良い企業だけが賃上げをすればいいという理屈では、賃上げの相場は形成されません。労働組合が賃上げの相場を形成する力が落ちています。かつてのような相場形成力を取り戻すために、産別やナショナルセンターは働き掛けをもっと強める必要があります。

回復後は賃上げめざす

雇用維持が優先され、賃上げが抑制されてきたとはいえ、守られている雇用の内実にも注意する必要があります。例えば、コロナ禍では、雇用は守られているものの、シフトの減少によって生活が困難になるほど収入が減った非正規雇用労働者がたくさんいました。また、日本の大企業は、中核企業の従業員数を絞る一方、下請け企業に業務を委託してきました。コロナ禍でも、労働組合のあるグループ会社では雇用は守られていたかもしれません。ただし、下請け企業では、委託業務の削減を受けて、一定の解雇者が出ていました。

海外でもコロナ禍の解雇はありました。ドイツの航空業界もコロナ禍で解雇者を出しましたが、下請け企業が少ない分、解雇者の数は日本の航空業界とそれほど変わらなかったかもしれません。ドイツの航空業界の労組は、需要の落ち込みからの回復後、賃上げを要求しています。厳しい時期に賃上げを求めることはできないと思いますが、日本の労働組合も一定の回復後には賃上げを求めてほしいと思います。

キャリア展望と賃上げ

賃上げのためには、労働移動を前提としたキャリア形成の仕組みも整える必要があります。

岸田政権は、成長性のある産業への労働者の移動や、そのための学び直しを重視した「構造的な賃上げ」を打ち出しています。議論の方向性自体間違っていませんが、その仕組みを具体的にどう構築するかが問われています。

現在、賃上げの課題になっているのは、一つの職業にとどまるだけではキャリアの展望を見いだしづらいことです。例えば、介護士の場合、施設長などになって賃金が上がる人は少数で、そうでなければ賃金が上昇しにくいケースが多いです。こうした職業の場合、労働移動を伴いながらキャリアを展望できる仕組みづくりが求められています。

労働移動は、離れた分野より隣接分野で起きやすい傾向があります。例えば、トラックドライバーからシステムエンジニアになるより、SEからITコンサルタントになるケースの方が多いです。介護に隣接する分野として看護がありますが、介護士から准看護師、看護師になるというキャリア展望も考えられます。こうした仕組みを産業別労働組合が率先して考えていかなければなりません。

労働移動で労働組合が重要な役割を果たすのは、労働組合がその業界の仕事の内容や労働者に求められるスキルをよく把握しているからです。どの職業の人がどの仕事にマッチングしそうか、それをわかっているのが労働組合です。

労働組合はこれまでにも事業所閉鎖などがあると組合員の雇用機会を必死に探してきました。コロナ禍では需要の急減に直面した企業が従業員を他業界に出向させるなどしてきましたが、労働組合はそこにもかかわってきました。

このような就労のマッチングをしてきた経験は、賃上げのための労働移動にも役に立つはずです。どういう仕事が、どういう仕事にステップアップしやすいのか、労働組合が組合員に示し、そのための学びをサポートする。そういう仕組みをつくってほしいと思います。

評価の基準をつくる

コロナ禍では、仕事が減ったことを機会に従業員に教育訓練を施す企業も少なくありませんでした。しかしその一方でマナー講座のような一般的な講習ばかりで、スキルアップにつながらなかったという声もたくさん聞きました。教育訓練の中身を検証する必要があります。

学んだことについては、それを評価するよう、会社と交渉する必要があります。リスキリングといっても学んだ内容が評価されなければ、学びのインセンティブになりません。例えば、ドイツの労働組合は、「このスキルについて何時間学んだから、その能力が身に付いているはずだ。だから、それを評価して賃金を上げるべきだ」という風に交渉します。能力は目に見えるものではないので、交渉によって基準を決める側面があるのです。このようにして何を学べば賃金が上がるのかが「見える化」すれば、労働者もその基準をめざすようになります。

労働組合が内向きな論理にとらわれていれば日本社会は良くなりません。日本ではこの間、成長がないから分配できないといわれてきましたが、分配があるから成長するというように、賃上げを起点とした経済成長を労働組合こそ訴えるべきです。

労使が「合成の誤謬」に陥らないようにするために、よりマクロで長期的な視点から、産別やナショナルセンターが働き掛けを強めることが重要です。

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