「普通ってなんですか?」
「部活動的世界観」を超えていけ
気鋭の教育社会学者、内田良氏の『ブラック部活動』(東洋館出版)を読んだ。内田氏はこれまで部活動だけでなく、柔道事故、組体操など学校におけるリスクに関して研究を積み重ねてきただけでなく、広く社会に問題提起し、解決策を提案してきた。
この本は、制度上のグレーゾーンにあり、「居場所」であり「競争」の場でもある部活動という存在をデータ、ファクトをもとに読み解いている。労働問題にかかわる者としては、教員の疲弊ぶりに絶句した。「部活未亡人」なる言葉があるそうだ。週末、配偶者が家にいないからである。
部活動は、教員にとっても、生徒にとっても「強制された自主性」の象徴だ。さらには立ち止まって考えると異常というか異様であることに関して「これが普通だ」という感覚が刷り込まれていく。
「それが普通ですから」
人生において、何度この言葉を聞いたことだろう。
小学校時代の少年野球、中学校時代のバレー部は練習も上下関係も厳しかった。後者では先輩はもちろん、時には先生からも殴られた。高校時代の軽音楽部は人間関係がギスギスしていた。大学時代にアルバイトしていた運送屋は言葉の暴力が慢性化しており、中国人留学生には社員が差別的な発言を浴びせていた。
社会人になってからもそうだ。新卒で入った企業は、不夜城と呼ばれるほど忙しく、顧客がほしいとも言わないのに強引な営業を行っていた。その企業も、次に移った企業も宴会ではコンプライアンス的に問題がありそうな芸が行われていた。いつの間にか今は大学の教員をしているが、学生たちの明らかにアルバイトをやりすぎな状況を見聞きして、胸を痛めている。
しかし、どの時代においても、誰もがこう言った。「これが普通だから」と。声を大にして言いたい。いや、問いただしたい。「あれは普通だったのか?」と。
いつの間にか、間違った「普通」が刷り込まれている。その起点の一つは、「部活動」だ。以前、このコラムで「体育会」について検証した。よく、企業の社風などを評価する際に「あの企業は体育会系だから」という話が出る。ただ、今の体育会は練習も、勝つための戦略策定も科学的だ。ハラスメント防止と健康管理のために、シーズン中は一切飲酒禁止という部だってある。
実は世の中で論じられている「体育会的」なるものは「部活動的」だ。「これが普通」という規範が刷り込まれる。しかも自主性を装って、だ。素人の顧問の下、やはり玉石混交な部員が気合いと根性で激しく運動させられる。気付けば、生徒も教員もすり減っている。まるで日本の企業社会そのものではないか。
もちろん、上達するため、あるいは精神を高揚させるためなど、さまざまな理由が付けられて美化される。ただ、誰もがここまで努力しなくてはならないのだろうか。別にプロをめざすわけでもなければ、たたき直さなければならないほど心がすさんでいるわけでもあるまい。
働き方改革が叫ばれる今日このごろだ。ここでやるべきは「普通」を問い直すことだ。自社における部活動的な行動規範、価値基準を今こそ見直すべきである。