新型コロナウイルスと労働関連問題「年越し派遣村」から「コロナ危機」へ
支援のあり方はどう変わったのか
センター・むすびえ理事長
生活困窮の実態
生活困窮の実態がまとまったデータとして明らかになるのはこれからだと思います(取材・5月中旬)。4月末に発表された完全失業率は2.5%でしたが、緊急小口貸付などを行う社会福祉協議会の窓口は3月後半からひっ迫した状態になっています。生活保護の相談件数も急増しています。生活苦に陥った人たちが相当数いることは間違いありません。
10年前と比べると非正規雇用だけではなく、個人請負で働く人も増えています。雇用という側面だけでは、実態を正確に把握できない可能性があります。
こども食堂にも、さまざまな声が寄せられています。学校の休業で給食がなくなり食費がかさむ一方、仕事がなくなり収入も減るという支出増と収入減のダブルパンチを受けているという声も届いています。
日本人は我慢強いので「仕方ないから」「我慢のとき」と、不平不満を抑え込んでしまうところがあります。10代の女性が家に居場所がなく行き場を失ったり、派遣労働者が仕事とともに住居を失ったりという話が伝わってきます。見えにくいところで生活困窮が進行しています。
「年越し派遣村」との違い
貧困や生活困窮の問題は、もともと「見えづらい」問題です。「年越し派遣村」は、人が集まることで問題を可視化できましたが、今回は人が集まる活動ができず、「年越し派遣村」のように問題を可視化することも難しくなっています。支援者から当事者にアプローチすることも、当事者に相談窓口に来てもらうことも難しいという意味で、今回の危機は貧困・生活困窮問題の「見えづらさ」に拍車を掛けています。これが「年越し派遣村」との大きな違いです。
一方、いい意味での違いもあると感じています。一つは2013年に生活困窮者自立支援法が成立し、市町村に相談窓口が設置されたことです。行政は、リーマン・ショック時にはなかった「武器」を持っています。これを活用することが大事です。
もう一つは、こども食堂が全国に広がったことです。こども食堂は2012年に第1号ができたといわれていますが、今は4000カ所にまで広がっています。これも当時との大きな違いです。
意識の変化
「年越し派遣村」から改善できなったことを挙げれば、ある意味、すべてのものが不十分です。それでも、リーマン・ショックから東日本大震災の経験を通じて得た教訓は、今回の危機の中でもそれなりに生きています。
例えば、リーマン・ショック当時、緊急小口貸付の要件を緩和するのに、厚労省との間で非常にすったもんだして苦労しましたが、それに比べると今回は要件緩和が素早く行われています。住宅確保支援金にしても、制度の大前提であったハローワークでの求職の申し込み要件がなくなるなど、当時に比べると現場の声が受け入れられるようになっていますし、制度を変えるための「工数」が減っている気がします。
「年越し派遣村」当時と比べると、「優しさに対して優しくなった」と思います。10年くらい前までは、「優しさだけでは世の中うまくいかない」というマッチョな自己責任論が一般的でしたが、毎年災害に見舞われる中で、優しさに対して寛容になったと感じています。社会全体の意識の変化が行政や政治に影響しているのではないでしょうか。
それでもあえて足りないものを挙げるとすれば、「貪欲さ」や「執着」だと思います。さまざまな支援策をそろえたとしても、その支援が届かない人がどうしても1〜2割は出てしまいます。それを乗り越えて、一人ひとりに支援策を届ける貪欲さと執着が必要だと思います。
そこを担うのは「官民連携」のネットワークです。行政がすべての人に支援を届けられるわけではありません。民間のネットワークを最大限活用することが必要です。民間と連携してでもやるという貪欲さが必要だと思います。
つながりを大事に
緊急事態宣言下でこども食堂は、9割が食堂を開けないでいました。ただ、その中でも46%のこども食堂が、食料を配布する「フードパントリー」や弁当の宅配などの活動を継続しています。食堂を開けている1割のこども食堂と合わせれば、過半数のこども食堂が活動を継続したことになります。
こども食堂は、居場所を通じて食事を提供する、交流や相談、エンパワーメントの場にもなっていますが、そうした活動のコアの部分は緊急事態宣言下でも、柔軟に維持してきました。その底力は非常にたくましいものがあります。
阪神・淡路大震災があった1995年は後になって「ボランティア元年」と呼ばれるようになりました。同じように今回も危機を乗り越えた先に社会全体では得るものがあったと言えるようにしたいと考えています。
私の立ち位置からは、こども食堂のプレゼンスの向上と並行して、地域からの理解を得る機会にしたいと考えています。こども食堂が地元の飲食店などを支える立場に回ることで、地域の助け合いにとって欠かせない場だと思ってもらえるような活動を行っていきます。
災害が起きると平時のつながりのありがたさが再認識されます。こども食堂が東日本大震災の翌年にできたのも偶然ではありません。今回の経験を経て、平時のつながりが大事だという声はもう一段高まるはずです。こども食堂がその受け皿になれるようにしたいと考えています。大きな危機の経験をバネに社会が少しずつ変わっていくことができればいいと思います。