ジェンダー平等に向けてビジョンを共有する
職場で、労働組合で、何をめざすのか「男社会」から抜け出すために
男性はどう変わるべきか
高等教育企画室
特任准教授
「森発言」の背景
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(当時)の女性差別発言は、女性を社会を担う対等な存在とみなしていないのだろうと思わざるを得ない発言でした。女性は本来のメンバーではない。メンバーではない人が話すとうるさく聞こえる。そうした思考が、ああした発言につながったのではないでしょうか。発言の背景には、日本の多くの組織が男性ばかりで運営されてきた流れがあります。森会長もその流れにどっぷり漬かってきた男性の一人でした。
森会長は、その場にいる人を喜ばせようと一種の「サービス精神」で、あの発言をしたのかもしれません。もしも「わきまえない女性」を自分たちと違う存在と見なし揶揄することで、「男社会」の仲間意識を高めようとしたのであれば、その場にいない人の悪口を言って身内の結束を固めようという心理と同じです。
佐藤裕さんは『差別論』という本の中で「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である」と述べています。森会長の発言を聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのがこの言葉でした。
男性の反発
「森発言」は、20〜30年前なら聞き流されていたかもしれませんが、今回は、たくさんの批判が集まりました。男性からの批判も数多くありました。その意味では、ジェンダー平等に関する状況は、以前に比べれば改善していると感じています。
一方で、「森発言」への批判に対する男性からの反発もありました。その一つは、「何が問題かわからない」ということ。もう一つは、「声を上げる女性への反発」です。前者は意識のアップデートができていない状態で、後者はフェミニズムに対する反発という側面があります。
日本は男性が多くの特権を有する社会です。ですが、多くの男性はそのことを自覚していません。それにはいくつかの理由があります。
一つ目は、特権とは持っている側が気付きづらいものであるということ。例えば、日本では同性婚は認められていません。異性愛者にとってパートナーと結婚できることは当たり前で、特権とは思っていませんが、同性愛者の立場からすれば、それは特権に映ります。このように特権とは、それを有している人は気付きづらいもので、持っていない側が常にそれを意識させられる構造があります。
二つ目は、今の自分のポジションは、自分の努力(だけ)の結果だとする努力主義や、一種の「自己責任論」的な考え方です。そうした考えを疑わない人にとって、「男性はげたを履かせてもらっている」という指摘は、自分の努力を否定されるように聞こえるのでしょう。
三つ目は、かつてのような「右肩上がり」の時代ではなくなり、以前ほど男性が「いい目」を見ていないという意識もあると思います。仕事や生活で達成感を得られず、自分は正当に評価されていないと感じている男性にとって、「男性は特権を有している」という話はおもしろい話ではありません。むしろ「実は女性の方が恵まれているのだ」という言説の方が、好ましく聞こえることでしょう。
特権に気付く
男性が有する特権の存在について、男性自身に気付いてもらうためには、曖昧な印象論は避け、男女格差に関するデータに基づき議論することが重要だと考えています。大学の授業でもそうしていますが、客観的なエビデンスを示せば、ほとんどの学生は理解してくれます。もちろん、授業を準備する際、自説にとって都合の良いデータばかり恣意的に探すような真似はしません。テーマに応じた国内外のデータを、色眼鏡なしで集めます。ですが残念ながら、データを集めれば集めるほど、想定以上にジェンダー不平等な現状が明らかになり暗い気持ちになる、というのが実際のところです。データを示してもすぐに納得しない学生もいますが、自分でデータを調べるように促すと理解を示してくれます。
そうして自らの特権に気付いたら、自分の言動を見つめ直し、軌道修正すればいいだけの話です。過去の自分の誤った言動に気付き、うしろめたさを感じることがあるかもしれませんが、特権に気づくことは社会にとって大きなプラスです。問題に気付く人が増え、そこから学び、行動する人が増えるからこそ、社会が変わっていくからです。気付くことは社会を変える第一歩だと私は考えます。
社会に差別が存在している以上、それを一つずつなくしていくのが、近代から現代を生きる私たちがすべきことです。江戸時代は生まれた身分に基づいて一生がほぼ決まってしまいました。近代になり徐々に、身分にとらわれず、自分の人生を自由に決められるようになっていきました。少しずつ差別をなくしてきた長い歴史があり、私たちはみんな、そうして少しずつフェアになってきた現代の恩恵を受けています。ですから私たちはこうした流れを引き継ぎ、今なお残る差別を是正し、よりフェアな社会をつくって次の世代へと引き渡す責務があるのではないでしょうか。
問われる差別への姿勢
男性が、声を上げた女性から責め立てられていると感じてしまうのはなぜでしょうか。
声を上げた女性は、男性という存在そのものを責めているわけではありません。そうではなく、性差別や男女間格差があるのに、それを是正しようとせず、差別を黙認したり肯定したりする姿勢が批判されているのです。現に存在する差別に対して、それを放置するか、改善するかという話なのです。
フェミニズムは、決して「女性のわがまま」などではなく、ジェンダーの非対称を平等にしようとする運動です。そうした視点からすれば、男性にげたを脱いでもらう場面もあるでしょう。しかし、男女が平等になって困ることとは何でしょうか。
ジェンダー平等を求める運動は、広く言えば、社会を公平にしていくための運動です。自分が弱い立場に置かれていると感じるなら、男性もこうした社会運動から学び、参加して、より公平な社会の実現を図るべきでしょう。それが自身の生きづらさを解消し、暮らしを豊かにすることにもつながるはずです。
リベラルの力
日本の社会運動において、リベラルと呼ばれる運動の多くも男性中心だったことは否めませんが、ここにきて大きく方向転換を図ろうとしています。リベラルの強みとは本来、自己を点検し、自己改革していく動きであるはずです。その強みを十分に発揮していくべきです。
最近では、上司のセクハラ的な言動に対して「セクハラですよ」と言える男性社員も増えているようです。男女平等を志向する男性も増えています。げたを脱ぐことで、男性もジェンダー規範から解放されるということもあります。男女が対等な立場として、ともに働き、ケアを担っていく。社会は少しずつ変わりつつあると感じています。私は、そこに希望を抱いています。