特集2021.12

「安い日本」
労組の力で転換を
賃上げには労働組合の力が必要だ
労働組合は「安い日本」を変えられるか?
政労使に求められる現実解とは何か

2021/12/15
長らく停滞する日本の賃金。経済誌も「安い日本」をこぞって取り上げるようになった。労働組合はこの課題にどう対応できるのか。労働組合の持つ「武器」とは何か。濱口桂一郎氏に寄稿してもらった。
濱口 桂一郎 労働政策研究・
研修機構労働政策研究所長

「安い日本」の源流

最近、「安い日本」がホットな話題になっています。日経新聞の中藤玲記者が書いたそのものズバリの『安いニッポン──「価格」が示す停滞』(日経プレミアシリーズ)は、特にその第2章(人材の安い国)で年功序列(がもたらす初任給の低さ)や横並びの賃金交渉、さらには「ボイスを上げない日本人」に、低賃金の原因を求めています。その理路は相当程度同感できるものではあるのですが、実はそもそも、「安い日本」は経済界と労働界が共同して求め、実現してきたものではないのか、という疑問もあります。

今から30年前、昭和から平成に変わった頃の日本では(今では信じられないかもしれませんが)、「高い日本」が大問題であり、それを安くすることが労使共通の課題であったのです。1990年7月2日、連合の山岸会長と日経連の鈴木会長は連名で「内外価格差解消・物価引下げに関する要望」を出し、規制や税金の撤廃緩和等により物価を引き下げることで「真の豊かさ」を実現すべきと訴えていました。同日付の物価問題共同プロジェクト中間報告では、「労働組合は、職業人の顔とともに、消費者の顔をもつ」と言い、「労働組合自らが消費者意識を高め、消費者に対しては物価引下げに必要な消費者意識や消費者世論の喚起に努めるべき」とまで言っていたのです。消費者にとってうれしい「安い日本」は労働者にとってうれしくないものではないのか、という(労働組合本来の)疑問が呈されることはなかったようです。

マクロ経済面については、1993年8月の日経連内外価格差問題研究プロジェクト報告が、「物価引下げによる実質所得の向上は…商品購買力の高まりが生まれ…新商品開発、新産業分野への参入など積極的な行動が取れるようになり…経済成長を大いに刺激することになる」と論じていました。失われた30年のゼロ成長は、この論理回路が100%ウソであったことを立証しています。

それにしても、サービス経済化が進展し、労働への報酬がほぼサービス価格となるような経済構造に向かう中で、労働組合が(賃金引き上げを求める)労働者意識よりも(価格引き下げを求める)消費者意識に重点を置いてしまったら、賃金が上がらないのはあまりにも当然でした。サービス業において付加価値生産性とは概ねサービス労働者への賃金を意味しますから、これは日本経済における生産性の停滞を意味することになりました。そして、日経連報告とは逆に、賃金停滞による実質所得の停滞は成長しない経済をもたらし、欧米どころかアジア諸国よりも安い日本をもたらしたのです。

一斉値上げと独禁法

今必要なのは、30年前の間違った歯車をかみ合わせることでしょう。消費者も職業人の顔をもつのであり、消費者としてはうれしい低価格は職業人としてはうれしくない低賃金をもたらす元凶なのだから、安さばかりを追求すべきではない、働く人に適正な賃金が払われるように適正な対価を払うべき、と、消費者でもある労働者が声を上げなければならないのではないでしょうか。

とはいえ、実際の賃金決定の場面には、その企業の製品やサービスを購入する消費者がいるわけではありません。マクロ的には労働者≒消費者であっても、ミクロ的には労働者じゃない消費者なので、「そんなに賃金を上げたら価格が高くなって消費者に買ってもらえない。他社の商品やサービスに流れてしまう」という反論は厳然たる事実であり、あるべき論で突破できるものではありません。ではどうしようもないのか、といえば、だからこそ他社の商品やサービスに消費者が流れないように同業種が一斉に価格を引き上げるというのが唯一の道になります。ところがそれは、独占禁止法が禁止するカルテルであり、許されないのです。

労働者のカルテル

さあ困った。解決の道はないのでしょうか。実はあるのです。労働組合がほとんどすべて企業別組合である日本ではほとんど意識されることはありませんが、もともと労働組合とは同業種、同職種の労働者が企業を超えて労働の対価たる賃金率を決め、安売りをさせないことに源流があります。その意味では労働組合とは労働者のカルテルであり、それゆえ19世紀から20世紀初頭のアメリカでは、シャーマン反トラスト法によって労働組合が片っ端から摘発され、団体交渉が事実上違法化されたのです。これをひっくり返すためにアメリカ総同盟が掲げた標語が「労働は商品ではない」であったことを、日本の労働組合員たちはどこまで知っているでしょうか(濱口桂一郎・海老原嗣生『働き方改革の世界史』ちくま新書)。

今では、労働者の団結は摘発されることはありません。事業者がやれば違法になることを、労働組合であれば合法的にやれるのです。それを現にやっているのが、日本以外の先進諸国では一般的な産業別労働組合であり、産業別団体交渉です。個別企業を超えてある産業の中で働く労働者の労働の価格の最低限を決め、それ未満の低賃金を禁止することで、その賃金が払えないような企業が低価格で商品やサービスを販売することを不可能とし、それなりの高価格での商品やサービスの購入を消費者に受け入れてもらうという筋道です。労働組合が合法的なカルテルだからこそできるのです。

価格崩落の守護神

では、産業別交渉がほとんどなかった日本で、30年前まではどうして(当時は怨嗟の的であった)「高い日本」が実現できていたのでしょうか。恐らく公正取引委員会が極めて弱体で、通商産業省はじめとする事業官庁が音頭を取って事業団体による事実上のカルテルが横行していたからでしょう。そういうねじれた状態が解消してきたことは慶賀すべきことかもしれませんが、その代わりに価格の崩落を食い止める役割を果たすべき労働組合という名のカルテルが、残念ながら日本ではほとんど力を発揮することがありませんでした。あまつさえ自らの労働者としての意識よりも消費者意識の方を優先するかのようなことまでやっていたわけです。

もとより、いまさら公取が言うところの「独禁法冬の時代」を再現すべきなどという時代錯誤が通用するはずもありません。労働組合が、ただ労働組合だけが、価格の崩落を防ぐ守護神としての役割を果たせるのですから、その任務から逃げていては、労働組合としての存在意義が問われるでしょう。とはいえ、現に産業別交渉の土俵がかけらも存在しないところに、いきなりあるべき論を掲げて何かが動き出すわけでもありません。

産別最賃という武器

今手元にある武器を使って何ができるのかを考えると、政府の賃上げ要請と産業別最低賃金制度をうまく組み合わせて、バーチャルな産業別賃金交渉の場を作っていくことが考えられます。最低賃金といえば、ほぼパート、アルバイト向けの地域最低賃金ばかりが注目されますが、産業ごとの普通の労働者の最低限を定める産業別最低賃金(現在は特定最低賃金)こそ本来の労働組合の活動に密接につながるものです。残念ながら近年、地域最低賃金の上昇に埋もれる例が多いのですが、三者構成の地域最低賃金審議会で産業別最低賃金を決めることこそ、今日の日本に存在しうる産業別賃金交渉の場であり、いま求められるカルテル機能を発揮できる唯一の場でもあります。

ただ長らく経営側は産業別最低賃金に極めて消極的な姿勢をとり続けてきました。漫然と要求するだけではなかなか進まないでしょう。そこで、政府の賃上げ要求と結び付けるのです。個別企業相手に賃上げを求めている限り、組合であろうが政府であろうが、企業はそう簡単に言うことを聞くわけではありません。賃上げ分を税制で補塡するとしても、賃金を上げて売れなくなった企業を助けてくれるわけではないからです。土俵を個別企業から業界全体に変え、事業者同士ではできない賃金カルテルを、産業別最低賃金という立派な形でやれるように、それこそ政労使で話し合って仕組んでいくという智慧が、いま求められているように思われます。

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