トピックス2016.03

東日本大震災から5年
南相馬市・南三陸町のいま

2016/03/17
東日本大震災から5年が経過した。編集部は今回、情報労連とかかわりのある福島県南相馬市と宮城県南三陸町を訪問し、復興の状況などについて話を聞いた。

近づく避難指示解除 生活環境面などで課題も
福島県南相馬市小高区

鈴木 敦子 南相馬市社会福祉協議会小高区福祉サービスセンター所長

福島県南相馬市小高区は、その大半が東京電力福島第一原発から20キロ圏内にあり、原発事故後に約1万3000人いた住民が避難を余儀なくされた。

避難指示解除は今年4月1日を目標に準備が進められてきたが、ずれ込むかもしれない。2月20日に南相馬市が開いた避難指示解除に関する住民説明会で住民の不安が噴出したことで、解除が5月以降になる可能性があることを21日付の河北新報が伝えた。2月末時点で解除の日程は確定していない。

不安の背景にあるのは、除染の遅れだ。小高区福祉サービスセンターの鈴木敦子所長は、「除染作業の遅れが目立っていて、3月末の目標に間に合うかどうか不安視されています」と話す。

他方、帰宅する住民の自宅整理も課題となっている。「震災後から自宅に一度も戻っていないという人もいます。5年も経ってと思われるかもしれませんが、避難指示が解除されてやっと安心して片づけられると考える人も実際にいます」と鈴木所長。これから自宅の整理をする人のニーズも「潜在的にはまだありそう」と指摘する。

生活環境面の課題

避難指示が解除された後の生活環境面の課題も出てきている。

昨年、小高区内に市立病院の分院が再開したが、近隣に薬局がなく、薬を受け取るのに隣町まで移動しなければいけない。駅前にコンビニエンスストアができたが、品数や価格の面から、隣町のスーパーまで買い物に行く人が多いのが実態だ。

区内に四つあった小学校を来年度の2学期から一つに統合して区内で再開する計画に対して反対意見もある。避難先で新しい生活基盤を持った人たちにとって、転職や転校などは小高区に戻る際のハードルになる。このように環境面での課題が山積しているのが現状だ。

南相馬市内。除染作業で生じた土などが積み重ねられている

ボランティアの力

社協はボランティア活動を避難指示解除後1年間は続けることをすでに決めている。その間には、これまでのような住宅整理を支援する一方で、住民の生活支援も展開したいと鈴木所長は話す。

「これからは住民交流の場をつくる事業を意識的にやっていきたいと考えています。皆さんのお力を住民との交流をメーンとした活動にも貸してもらえたらうれしいです」と鈴木所長。ボランティアの人たちとのふれあいは、地域住民にとっても精神的な支えになっているという。その上で、「こういう企画をしたいというアイデアがあれば、ぜひ伝えてほしい」とも話す。住民コミュニティの再生は避難指示解除後の大きな課題の一つ。ボランティアの力をそこでも生かせそうだ。

鈴木所長は小高区の将来について「華やかじゃなくても、のんびりと過ごしやすい地域にしていきたい」と語る。情報労連としても、地域と寄り添って一緒に楽しめるようなボランティア活動を展開できるはずだ。

2015年10~12月にかけて実施した情報労連統一「復興支援ボランティア」

ボランティアのつながりを「交流人口」増加に結び付ける
宮城県南三陸町

猪又 隆弘 南三陸町社会福祉協議会事務局長

宮城県南三陸町の人口は、震災前から5000人減少した。今年1月時点の人口は1万3782人。東日本大震災で被災した多くの自治体と同様に、これから定住人口が大幅に減ると予測される「消滅可能性都市※」の一つでもある。

「これからは交流人口を増やさないと町は成り立たなくなりますよ」。南三陸町社会福祉協議会の猪又隆弘事務局長は率直に打ち明ける。そのため、町と社協と観光協会は、震災から5年間で同町を訪れた延べ15万人のボランティアとのつながりを生かし交流人口を増やそうと、2015年4月に「南三陸応縁団」をつくった。その前月には「南三陸ボランティア感謝の集い」を開催。全国から1000人が集まった。

「応縁団」では、交流イベントや物産展の開催情報、農業や漁業のボランティア募集案内をメールで配信。これまで日本橋や神戸、仙台での交流イベントを開催してきた。今年1月末までに1370人が登録している。

南三陸町でのボランティア活動は、2012年11月から2013年1月にかけて実施。延べ180人が参加した

受け入れ側の態勢変化

「つながりをずっと保つことが大切。つながりがあるから南三陸に人が来てくれる。一期一会のきっかけを大事にしたい」と猪又事務局長は話す。

震災後は多い時に月5000人のボランティアが同町を訪れていたが、現在は月800人程度。ボランティアへのニーズもがれき撤去が中心だったものが現在は漁業や農業の支援、仮設住宅でのコミュニティー支援などソフト面での支援に移行している。

「皆さんが、これからしたいことを伝えてくれれば、こちらはマッチングしますよ」。猪又事務局長は、ボランティアの受け入れ側の態勢もこの5年間で変化していると説明する。震災直後は被災地から「これをしてほしい」とニーズを伝えていたが、今は南三陸に行く側が「現地で何をしたいか」を伝える。猪又事務局長たちは、その意志を現地のニーズとマッチングさせる。

例えば、社員研修はその一つだ。防災やまちづくりに関して、総合的な学習を現地で行うことができる。地域の子どもたちを対象にしたスポーツ教室を開いてもいい。観光だっていい。夏祭りを企画して地域住民と交流を図ってもいい。要は、南三陸を訪れる側が何を得たいかということだ。

「あまり身構えなくてもいいんですよ。ここに来る人たちが楽しんでもらえれば」と猪又事務局長は話す。町外の人たちとのふれあいは、精神的な支えにもなると猪又事務局長は指摘する。

内のあちこちで土地のかさ上げ作業が進む

「被災地」と言っていられない

「いつまでも被災地と言っていられない」。猪又事務局長は、震災から5年が経過して、地域の自立への道を模索している。漁師の後継者問題、公営住宅での孤独死防止、高齢化の進行─など地域に問題は山積している。だからといって、ネガティブになってばかりもいられない。「どうやって街を作って行くのか前向きに考えないと」と猪又事務局長は訴える。そのためには、交流人口を増やすこと。ボランティアで生まれたつながりを町の復興促進に生かそうとしている。

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