「コロナ」から考える政治と生活政権交代はなぜ必要なのか
「景気依存社会」から
「支え合う社会」への転換を
方針が定まらない政権
「コロナ対策」には当初から大きな争点がありました。その争点とは、「経済優先」か、「人命優先」かです。安倍政権も菅政権も、その争点をあいまいにし続けてきました。
例えば、中国からの入国制限が遅れたのは、春節の旅行客がもたらす経済効果を優先したからでした。一方、政府は3月に入り突然、学校の一斉休校を決めました。その後も、「Go To トラベル」を続ける姿勢を示していたにもかかわらず、支持率が下がると一転して停止を決めました。このように問題が起きてから対処する泥縄的な対応が繰り返されるのは、「経済優先」か「人命優先」か、政府が基本的な方針を定めてこなかったからです。そこに大きな問題があります。
政府はさらに、政治の説明責任を専門家に負わせ、自ら果たそうとしてきませんでした。基本的な方針も決められず場当たり的な対応に終始し、説明責任も果たせない、無責任な状態になっています。
こうした状態が首相や担当大臣の個人的な資質によるものだとすれば、その人たちに交代してもらえばいいのですが、それが自民党という政党の体質によるものだとすれば、政権交代を果たさなければ事態は変わりません。
自民党政治の限界
自民党はさまざまな業界団体の利害を集め、それを最大化することで支持を拡大してきました。そうした機能は、人口増加、高い経済成長という局面では利益配分という機能を発揮することができました。しかし、人口減少、低い経済成長という局面では、配分のパイが大きくならないため、配分を削らざるを得なくなりました。削られたのは、社会的な立場が弱い人たちや、自民党中枢から遠いところにいる人たちでした。
「コロナ」対応を見ても、安倍・菅政権は、財政出動を避けているわけではありません。大規模な財政支出もいとわず実施しています。しかし、その内実は支持団体への「恩恵」であり、選挙対策という政権の意図が透けて見えます。
仮に「人命優先」であれば、感染リスクを高める行動を避けてもらうために政府は休業や営業体制の縮小を要請し、それに対して一定の補償を行います。休業補償は、休んでもらったことに対する補償なので、「権利」です。政府は「恩恵」としての財政支出はいとわず行いますが、「権利」に対する支出は避けようとします。有権者がありがたみを感じてくれないからです。「権利」を軽視する姿勢は、すなわち、「生存権」の軽視につながることも見逃してはいけません。
こうした政治の背景には、自民党政権による新自由主義的な政策があります。新自由主義的な政策とは、要するに「もうけた者勝ち」の政治です。もうけることのできる人たちは、法律をねじ曲げてでも富を増やす一方、それができない人たちは自己責任の名の下に切り捨てられる。自民党という業界団体の利益を追求するシステムは、新自由主義的な政策と軌を一にしていました。
業界団体が短期的な利益を追求し、その実現のために政治に働き掛けること自体は悪いことではありません。そうではなく、政党がそれに振り回され、長期的な視点で政策を統合できないことに問題があるのです。自民党という政治システムでは、スパイラルから抜け出すことはできません。それが政権交代が必要な理由の一つです。
景気依存社会からの脱却
もう一つ指摘すべきなのは、自民党の政治が、景気に依存した政治になっていることです。
景気が良くなれば、社会保障も含めて課題は解決する。大学で講義をしていても、そう考える学生は多くいます。一方、景気変動と関係なく自分たちの生活は安定していい、あるいはそうあるべきだと考える人は思ったより多くありません。景気が悪くても生存権が脅かされるようなことはあってはいけない。憲法もそうした社会をめざしているはずなのに、多くの人が自分たちの生活は景気に左右されても仕方ないと内面化しています。日本社会は、景気に依存した社会にますますなっています。日本社会の根源的な問題の一つと言っていいかもしれません。
景気循環は必ず起きます。私たちは景気依存の社会から脱却しなければ、いつまでも安定した生活を手に入れることはできません。自民党の政治は「景気依存」の政治です。これも政権交代が必要な理由の一つです。
では、野党勢力はどのような対抗軸を示せるのでしょうか。景気依存社会から抜け出し、「支え合う社会」を作らなければいけません。大衆迎合的には、好景気を再現できると訴えることが一番の選挙対策でしょう。一方、「支え合う社会」の実現のためには、多くの人と対話し、丁寧に合意形成する必要があります。それは、短期的な利益の追求に比べて、多くの手間や時間が掛かります。支え合うための負担に対する反発もあるでしょう。けれども、そこで歯を食いしばって長期的な利益を追求する必要があります。
労働組合の役割
自民党の支持団体には、短期的な利益を追求する経営者や業界団体が集まっています。一方、野党の支持母体となる人は、長期的に安定した生活を求める人たちでしょう。労働組合もその一つです。
労働組合には、日々の賃金や労働条件を維持・向上させる短期的な役割がある一方、人々の生活が景気の波に左右されず、安定して働くことのできる社会を築くという長期的な役割があります。短期的な利益を追求する自民党の支持団体と労働組合は本質的な違いがあるのです。
こうした役割を労働組合が発揮するためには、社会保障制度の構築を含め、政治にコミットするしかありません。
そもそも、民主主義のシステムでは、さまざまな利益を持った人たちが自分たちの利益を最大化するために、政治にコミットすることが想定されています。経営者団体が政治にコミットしているのを見ればそれがわかるでしょう。労働組合が政治にコミットしなければ、経営者団体の意見ばかりが政治に反映され、労働者の生活は不安定になり、苦しくなります。労働組合が政治に参加することは民主主義社会の最低条件なのです。
労働組合は、自民党を支持すればいいという声も一部にはあるようです。けれども、自民党が代表する利益は、労働組合のそれと異なります。労働組合の要望が、自民党政権において一部受け入れられることはあるかもしれません。しかし、それ以上の改善は望めません。むしろ、改悪の提案が出され続けるのですから、いつまでたっても「防戦一方」です。その限界を感じているからこそ、連合は新しい立憲民主党の立ち上げを支えたのだと思います。大企業の経営者を支持母体とする自民党だけではだめで、働く人たちを代表する政党が必要です。
短期的な利益を追求する「景気依存型の社会」から、長期的な視点で生活の安定を求める「支え合う社会」への転換のためにも、政権交代が求められています。